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「ない宗教」

仏像が面白いと思ったので、仏教はちょいちょい知識を得ていた。イスラームは専門書ではないが、20冊くらい関連の本を読んだ。アンコールワットなどのクメール美術などを見るために、ヒンドゥー教の神様も名前くらいは知っている。つい最近、聖書にはまっていた。

神道は?

避けていたといえばそうだと思う。学のない軍国主義者が信仰するようなイメージがあった。戦後教育の賜物だろう。

この茶番が共産化へ持っていくための手段であることは、あちこちで言われているし、私もそう思っている。共産主義の反対は何だ?と言うと、保守。日本なら日本の独自性を尊重することだ。日本独自の宗教と言えば、神道だ。だから、この茶番に異議を唱えている人に、神道を推す人が多い。HEAVENESEのマレさんなんて、牧師なのになぜ神道?

それも何も、そもそも神道について知らないから、不思議だらけだ。神道関連で読んだことがある本は、何年か前に読んだ『国家神道と日本人』くらい。

手元に本が無いのだが、国家神道の広がりと、この茶番の広がり方が似ていると思った。明治政府がはじめた国家神道に、初めは見向きもしなかった国民に対して、学校祝日の設定で思想を広げていった。そのうち、下(国民)からの熱狂的な支持が始まった。

この茶番も、様々な手段で、ことあるごとに国民に意識させるように仕向け、時間が経てば、国民のほうが勝手に熱狂した。○スク警察なんかがそうだろう。


今、島田裕巳先生の『神道はなぜ教えがないのか』を読んでいる。まだ途中だけれど、面白いと思ったのは、神道にはこの世界を創造した神がいないということだ。

 一神教の神なら、天地が創造される以前から存在し、創造という営みに主体としてかかわっていく。それに対して、日本の神々は最初から存在するものではない。第4章でも述べたように、それは「なる」神であり、いつの間にか生み出されていく。とくに最初にあらわれた神々は、その時点では何の営みもしないまま消えていった。

『神道はなぜ教えがないのか』p86

日本人が物事の根源を問わないという性質は、ここにあるのではないかと思った。

いつのまにか生み出されたものを、そういうものだと受け入れていく。

口に布を当てて効果があるかどうかなどは二の次で、そういうものだと受け入れる。どうしてするのか、その理由も忘れ去られて、下火になってもまだつけている。周囲に誰もいなくても。

同調圧力は確かにあるだろうけれど、なぜ着用するかを問わずに受け入れるのは日本人の特質で、神話にもそれが現れているのかもしれない。

液体もそういうものだと言って、7割以上の人が受けたのだろう。

共産主義も、そうやって受け入れていくのだろうか。


島田先生は、神道の本質に「ない」という事態があり、神道は「ない宗教」だと書かれている。

ということは、この国もそのうち「ない」になるのは、必然かもしれない。

始めがあれば、必ず終わりがある。人間だって、生まれて死ぬ。しかし、神道的視点に立てば、世界はいつのまにかできて、いつのまにか消えるということになるのだろう。無意識であれ、この国の多くの人はそれに同意している。

子どもに液体を打って、亡くなったり、健康被害が出ても、そういうものと思うのだろうか。私のように、後悔する人もまたマイノリティかもしれない。キリスト教が嫌いなのに、聖書と相性がいいのは、私には深い罪悪感があるからなのだろう。

「そうなった」に罪の意識はない

ああ、これも言葉が通じない理由の一つだと。



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