黒い形の踊り場
私は最近、大きさの異なる2台のパソコンを併用している。
大学生になり、「小さいの」を買った。2年後、「大きいの」を借りた。
(大きいのと言ったって16インチのラップトップだが、便宜上。)
借りたのか、もらったのか、なんなんだろう。分からない。
(そんな話あるか?)
ある日教授のところへ行ったら、「お前、パソコン(の動作)重くないか?1台余ってるんだけど使うか?」と言われて、ほいと渡され、それきり所有権がどこにあるのかわからなくなってしまった。卒業するまでに聞かなきゃと思っている。
(…そんな話あるか?)
(……あるんですよ…)
お金を払っていないのに手元にあるのだから、きっと借りているのだろう。
◇
本題へ。
大きなラップトップを使い始め、noteも時々それで閲覧するのだが、如何せん画面が大きいので記事の両端に大きな余白が生まれる。
書くときにはけっこう気が散るものもあるが(不慣れなだけ?)、この余白、文章を読むときにはかなりいいということに気がついた。
「行間を読む」という言葉があるように、余白を味わう。
書き手の思いが色になって、柄になって、風景になって、大きな自由な余白に表れる。
自分の境遇に照らし合わせて共感できるもの、そうでなくても共感できるもの、なるほどと気づかされるもの、読んでいて心にすんなりと入ってくる優しいもの…。
いろんな文章が、その大きな余白に思いをのこしているような気がするのだ。
最近そんな話ばかりしている気がするが、「豊かになれる」という言葉に尽きるのだ。
今までも十分味わってきたはずの素敵な文章の数々にさらに彩りが添えられたような、それでいて煩わしくない色合いでそっと想像力を少しずつ伸ばしてくれるような。
文章だけに限らず、写真やイラストも同様だ。写真はレンズに収まらなかった先の風景や撮影者の思いをその余白に滲ませている。イラストも然りで、色味を余白に纏わせている。
たかだかディスプレイの違い、使う端末の違いにすぎないはずなのに、印象はぐっと変わる。
不思議なものだ。
◇
では自分の書く文章も変わって見えたのかというとそうでもない。
自分で考えたことを凝縮して書いた文章ばかりなので、余白が大きかろうが小さかろうが、文字は文字のまま、黒い形のままだ。
それはいいことなのか悪いことなのか、よく分からない。
黒い形にのせた思いを最も等身大で感じることができるのは外でもない書き手自身なのだ。余白にその思いを放つ前に、黒い形があまりにも強く訴えかけてくる、そんな気がしている。
あるいは自分の目がもう、それだけに向かってしまっているのかもしれない。
ある意味では特権でありながらも、圧倒的ディスアドバンテージでもある。
◇
同じ類の話をすると、タイプされた文字より手書きのそれを好む人がいる。
私もその1人かもしれない。
本当に伝えたいことはメールなどの代わりに筆をとって紙にしたためて贈りたいという気持ちが強い。
手書きの文字か、タイプされた文字か。
大きな余白か、小さな余白か。
行間を読むか読まないか。
ちょっとのさじ加減でこうも印象が変わる。
白いスペースの中央で踊る、黒い文字。
この観点から自分の文章をああだこうだと自分で判断するにはまだレベルが足りないようなので、いつかは自分の綴る黒い形の周りの余白にそれ以上のものを自在に描けるようになれたらいいな、多少の自信をもてるように慣れたらいいな、と思っている。
そのあたりはあまり焦らず、ゆっくりやっていこうと思う。