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琴線に触れる

昨日は漠然と「日本語」や「言葉」について記事を書いていった。

古典や現代文が特別得意だった訳ではないし、そうであっても偉くは語れないが、まず誰かの作品を鑑賞するにあたっては、知識があるに越したことはないと思っている。
その知識というのは、昨日の話で言えば語彙である。

自分が知っている語彙の幅が広がれば広がるほど、作品を的確に表す手段が増えるということになる。
あるいは、作品の深み、真髄に触れることができるようになる、ということになる。

話を広げると、知識とは語彙だけに止まるものではない。その作品の作者が置かれている状況や、その時代背景も知識の一つだろう。特に歴史に残るような作品は、世相を反映したものが多い。作者の生きた時代や国を知ることで、その作品のもつ意味はずっと深くなる。

でも果たして、語彙が多いほどその作品を理解できるのだろうか。
または、語彙が多いほどその作品から感じるものは多くなるのだろうか。

知識もさることながら、感受性が大事なのではないだろうか?

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どちらの方が優れているとか言うつもりはない。そんな議論はナンセンスだ。

文章より、写真や絵画の方が、より感受性に依存しているかもしれない。

言葉に表せない「この作品、好き」は、もっぱら感受性の依るところである。

誰かが作った作品でなくてもいい。
自然や生活する街を見て美しいと思える感受性は、誰もが疑いなく当たり前のようにもっているものだろうか?

自分は自然も都会も美しいと思うが、雨の夜の都会(しかもこれに限っては人混みの中)が一番好きだ。
でもある人はきっと快晴の下の海辺が一番好きだろうし、ある人は高層ビルから見下ろす都心の夜景が一番好きだろう。

何気ない日常だって、感受性の豊かな人にはそれ相応にものに映る一方で、そうでない人には本当に味気ない、質素な生活にしか映らないだろう。

私が丁寧な暮らしをしたいと思ってまず心がけたのは、日常に眠っている「目新しいことの原石」に目を向けることだった。
それに気を配ることで、自分で新しいこともしてみよう(小さなことでも何でもいい)、と思えるようになった。

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もちろん文章の作品に触れるときにも、豊かな感受性はプラスに働くことの方が多い。
時々、光栄にも「あなたの言葉(文章)が心に響きました」という言葉をいただくことがあるが(noteでの活動に限らず手紙などでも)、それは他でもなく受け取り手の感受性の為す部分だと思っている。

そう思えるのは、かつて「他人の言葉なんて心に響くわけがない」と伏し目がちに「無言で」語っていた時期が自分にあったからだと思う。
正確には、「感化されてたまるか」だが。
そしてさらに正確には、今そんな自分が全くいないわけではないが。

受け取り手の心持ち次第で、書き手・作り手の思いはどこまでも届くし、逆に全く届かない可能性だってある。
そこに書き手・作り手の巧拙はあまり関係ないのではないかと思う。

書き手・作り手が伸ばしたベクトルが、奥底まで届くのか、途中で途絶えてしまうのか、跳ね返されてしまうのか…これらは多く、受け取り手の心持ちによるものなのではないか、というのが私の考えだ。

作品は優しい「もの」だから、誰かに「こう解釈しろ」という強制力をもたらすようなものでは到底ない。

何か心が落ち込んだとき、ふと誰かが投稿した一言で励まされるのは、もちろん投稿者の文章力が並外れている可能性もあるけれど、きっと、落ち込んで失っていた心の一部分に、いたって自然にうまくその一言を当てはめることができた、その人自身の感受性のおかげなのではないだろうか。

何事も、吸収しようと思って触れなければ、受け取り手の心には働きかけない。

その感受性を、どれだけ大切にできるか。

美しいものに対する感動、無駄のないいい意味での執着心を、どこまで忘れずに大切にできるか。

人は、慣れに弱い。

慣れれば鈍っていく。
鈍ればだんだんと、感受性だけではなく知識の方も錆びついてくる。

味気ない日がずっと続くよりは何か心が動かされる体験をしていた方が、少なくとも退屈ではないよなあ、と思うのだった。