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世界を飾る、豊かで美しい言葉

先日ニュースをみていた時に「弱含み」という言葉を耳にしたのだけれど、恥ずかしながら、私はそれまでその言葉に聞き覚えはなかった。

ちょうど隣に母親がいたので聞いてみると、その答えは私が推測したものと似ていた。

「投資とかやってるとよく聞く言葉かもしれないね」
と最後に母は付け足した。

(※母は投資はしていません)

何も投資に限った話ではなく、色々と「専門」の世界をかじってみると、知らない単語がまだまだたくさんあるに違いない。
新しい言葉を知ることは面白い。自分の無知を自覚することと同じだけれど、こんな言葉があるんだなあ、と思う。

それをきっかけに、ここ数日、日本語とか、言葉の美しさとか、そんなことについて考えている。

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私は昨年の秋、漢字検定を趣味で受検した(高校入試の優遇制度のために受検した3級止まりだった)。

受検日に至るまで参考書を使って勉強したわけだが、まあ知らない言葉ばかりで。真夏の暑い部屋で眉間にしわを寄せたのを覚えている。
ページを開いてみると、半分は知らない言葉だったし、四字熟語のページなんてほとんど「?」だった。

それでも楽しく続けられたのも、それに落ちても懲りずにまた勉強しているのも、多分言葉が好きだからだろうなあ、と思う。

(きっと、美しい言葉を知るにはたくさんの文学作品を読むことも1つの方法なんだろうなと思いつつ、どうして私は本を読めないのかというのだけが長年の謎として残り続けている。)

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もう少し広い視野で考えてみると、こうしてnoteでの活動が続いているのも、少なからず言葉というものが好きであるからであり。言葉のもつ力、っていうと大袈裟かもしれないけれど、そういうものをどこかでやはり信じているからであり。

言葉のもつ力といえば、昔私は詩のような何かを書くのが好きで、その最盛期は中学時代にあった。
まあ多分、周りも、「あのクラスのみうさんはああいう子」として「あんま近寄らんとこ」というスタンスでいただろうが…。

得も言われぬ黒歴史ではあるが、卒業アルバムにその詩が載っている。

ちなみに私が中学3年生の時の美術の作品の1つに、絵と詩のセットのものがあり、なぜかそれが3年ほど家の壁に貼られている。公開処刑。


(え?見せませんよ)


そんな具合に、中学時代を振り返る有形の遺産には、いつも自分の文章が添えられている。

このnoteという場で、素敵な文章や写真はもちろん、美しい詩を書く方にもたくさん出会うことができて。
そんな素敵な作品に比べたら、自分の黒歴史はもう跡形もなく燃やしてしまいたくなるわけだけれど、その時の自分の心がまっすぐに表れているようで、意外と愛もわく。

もし当時の私がその「詩」に惹かれて、詩という「専門」の世界に足を踏み入れていたなら、また美しい語彙を知っていただろうなと思う。
それでまた、ちょっと当時の自分が顔を覗かせて、せっかく暇なんだから、今の自分の気持ち、またそんな感じで文章に残してもいいんじゃないの、と言い出している。


って、カンザキイオリさんの曲を聴きながら書いている。
本当に美しいな、と思う他にないわけだ。
この気持ちを的確に表せるだけの語彙と表現力は、きっと勉強なしに得られるものではないのだろう。
というわけで、今日はここら辺で終わりにして…。