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後醍醐天皇と光厳天皇 〜その6 倒幕後の後醍醐天皇の政治(3)〜

歴史の教科書でさらっと通り過ぎてしまう南北朝にあえてフォーカスを当ててみるこのシリーズ。前回、討幕を担った武士を政権の中枢機関に取り込み、手懐けようとした後醍醐天皇。今回は、王権をより盤石なものにしようと奮闘します。(今回も、光厳院は出てきません…)

ではさっそく、見ていきましょう!


王権の確立に精を出す(1)

これまで政治の実権を握るための仕組みを考えてきた後醍醐天皇ですが、天皇としての威厳にかかわることが…実は不完全なままでした。それは何かというと、「家がなかった」のです。もう少し正確にいうと、天皇の生活の場である大内裏が鎌倉時代の初期に消失してから再建されておらず、なんと妻の実家の屋敷を仮の内裏(里内裏)として、そこで過ごしてきたのです…

天皇なのに自分の家がないというのは…示しがつかない感じがしますね…

じゃあ大内裏を再建しようということで、全国の地頭や御家人から年貢の20分の1を徴収することにしたのですが、ブーイングの嵐に遭って結局大内裏の再建は実現しませんでした。残念…

王権の確立に精を出す(2)

自宅の再建ができなかったからと言って、それで諦める後醍醐天皇ではありません。天皇の威厳を示すにはどうすればいいか?

洋の東西を問わず、古来より時の権力者は「貨幣の鋳造権」を握ろうとしてきました。今では電子マネーが主流ですが、一昔前までは、ある国で使えるお金はその国の権力者が発行した物理的なお金(硬貨や紙幣)しかありませんでした。
貨幣を鋳造して発行できる権利を持つということは、その国の経済の仕組みを作り、それに人々を従わせることができる権利を持つことと同義です。つまり、「貨幣の鋳造権」は、権力者にとってなくてはならない権利だと言えます。

後醍醐天皇も貨幣の鋳造に乗り出します。

権力者として押さえるべきところはきちんと押さえる後醍醐天皇

単に、天皇としての威厳を示したいから貨幣を作った…わけではありません。実は当時、商工業に関わる人々が「座」という組合を作っていて、それが有力寺社の権門に属していました。その結果、お金が有力寺社に流れて、寺社の権力がとても強くなっていたのです。天皇中心の政権を打ち立てたい後醍醐天皇にとって、自分以外の誰かが強い権力を持っているのは邪魔でしかありません。

新しい貨幣を作って流通させ、その中で、有力寺社や公家の支配下にあった各地の寺社を天皇の直接支配下に組み入れる…そんなふうにして、有力寺社や公家の力を弱めようと画策したのです。

諸問題に対応しつつ専制王権へ

王権を確固たるものにしようと考えを巡らせる後醍醐天皇ですが、旧幕府からの政権交代に伴う土地の問題や治安の問題が各地で発生していました。
それらの問題に対処するための指示を出しながら、後醍醐天皇は着々と「自分の意思を通すための権力体制」…すなわち専制王権体制を築こうと旧来の仕組みを変えていくのでした。

後醍醐天皇、なんだかんだで頑張ってますよね…

具体的に何をしたのかというと…国としての意思決定をする際に、これまでは天皇だけなく議政官(太政大臣、左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議で構成されていた)の意見も踏まえて決定していたのですが、その議政官を解体しました。つまり、意思決定は天皇一人でする、というわけです。

意思決定の場から外された議政官たちがどうなったかというと、天皇が決定したことを執行する行政官に任命されました。これまで国の意思決定に関わる特権を持っていた彼らにとっては、格下げされたも同然。

このように、後醍醐天皇は先例のない事をやってのけたのです。
ただそれが、良い結果につながるかというとそれはまた別の話で…

専制の色が濃くなってきた後醍醐天皇の政権ですが、この後どうなるのか!?
次回もお楽しみに!

過去の記事

参考文献

記事作成にあたって、次の書籍を参考にしています。



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