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後醍醐天皇と光厳天皇 〜その2 光厳天皇の即位と後醍醐天皇の流刑〜

歴史の教科書でさらっと通り過ぎてしまう南北朝にあえてフォーカスを当ててみるこのシリーズ。前回、後醍醐天皇が討幕の動きを見せましたが、側近の密告により幕府側に知られてしまいました…後醍醐天皇の運命やいかに!?

ではさっそく、続きを見ていきましょう。

後醍醐天皇が幕府に捕えられる

幕府の朝廷監視機関である六波羅探題を攻撃するため、後醍醐天皇は比叡山延暦寺の武力を得ようとしていました。が、側近の密告によって討幕の動きがバレてしまい、延暦寺に行けなくなってしまいました。

比叡山に行けなかったので南へ向かう後醍醐天皇

その後、笠置山に本拠地を置いて幕府軍と戦うも、あえなく捕えられてしまい、京都の六波羅へ連れ戻されるのでした…

光厳天皇の即位と後醍醐天皇の島流し

後醍醐天皇が2度に渡って謀反を起こすので、幕府ももはや見過ごせなくなり、後醍醐天皇の退位と、量仁親王の天皇即位を進めます。量仁親王は、ここで晴れて光厳天皇となるのです!

後醍醐天皇の処分を幕府に任せる、光厳天皇と後伏見上皇

幕府は、後醍醐天皇を隠岐へ島流しにします。後醍醐天皇の皇子たちも、土佐や讃岐へ行かせます。ただ、皇子のうちの一人、護良親王が幕府の手から逃れていて、楠木正成とともに抵抗を続けるのです。

楠木合戦と後醍醐天皇の脱出

後醍醐天皇が隠岐島に流されている間、皇子の護良親王が楠木正成と手を組んで奮闘します。赤坂城や千早城を本拠地として、天王寺や和泉に攻勢を仕掛けますが、幕軍の進撃を受けて赤坂城が陥落。千早城に後退して粘り強く戦います。

護良親王と楠木正成が頑張ります

護良親王が各地の兵士たちに挙兵を求めると、播磨国の赤松則村がそれに応じて挙兵します。そしてその間に、なんと後醍醐天皇が隠岐島から脱出し、伯耆(今の鳥取県西部)に到着します。後醍醐天皇も各地の兵士たちに挙兵を求め、いよいよ鎌倉幕府の討幕に向けた動きが加速していきます。

次回は、後醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕の流れについて図解してみたいと思います。光厳天皇は、天皇に即位したと思ったら後醍醐天皇が復活してきて「え、今オレが天皇だよね?どうすんのこれ?」状態ですね。さあ、この後いったいどうなるのでしょうか?お楽しみに!

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