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お盆休みをひとりで過ごして感じたこと

流行り病で数年前には遠方に帰省することすら阻まれたあの頃が懐かしいぐらい、今は移動が自由にできる。
でも、私は今年、実家に帰ることはしなかった。
帰りたくなかったからだ。

家族と私には今、大きな隔たりがある。
というより、母と私の間に隔たりがある。

親が子を「心配」に思う気持ちは分からなくないのだが、距離が「近い」のだ。
そしてその「心配」ゆえに届く連絡が、いつも子の状況、考えていることと思い切りズレていて、話しても理解をしてもらえないので私が距離を置いた。
何度か話したこともあるが、「なんで?」ばかり返ってくるその言葉にうんざりしたという方が近いかもしれない。
そしてこれ以上何かを話し、母を傷つけ、自分もすり減ることがしたくなくて、ある意味「逃げている」状態ともいえる。
が、必ずしも伝えなければいけないとも思っていないので、離れる選択をしている。
決して縁を切っているようなわけではないが、こちらから連絡をすることはまずないし、届いたメールに返事をすることも特別ない。

思えば母は娘である私を「自分の話し相手」のようにしてきたように思う。
母は、友人の話を「聞く」。とにかく「聞く」。
そして母は、自分自身のことは友人には話さない。
そんな自分を母は「優しい」と娘に言う。
その代わり、その友人との話や、母自身のことを私に「話す」。
私は母にとってそんな存在である。「聞き役」だ。
それは私が子供の時からそうだったように思う。
私の話を母が聞くことはあまりない。
というより、話しても会話として続かない。
成人してからは「あなたの世界のことはお母さんもう分からないわ」とどこかのタイミングで言われて終わる。
私にとっても「母の世界のことは分からない」が、そんなことは言わずにきた。

せっかくのお盆休みに実家に帰り、言い合いになった年もあった。
職場の休みに合わせて自分も有給を使い実家に帰って言い合いになる。
なんのために帰ったのかと思う。
そんな年もあった。

「ゆっくりただ休みたい」と話したのに、「旅行に行こう」と言われたこともある。
私は「寝るため」に帰りたいのに、「旅行」となり、挙句「天気が悪い」と愚痴をこぼされる。

私の帰省はなんの意味があるのだろう。

そう思ったら、帰省することですり減る自分ばかりで空しくなった。

「娘が帰ってきたから」➤「食卓がごちそうになる」
「娘が帰ってきたから」➤「あそこに行こう」

娘が帰って来ずとも、母自身が行きたかった場所でさえ、私が「帰ってきているんだから」と父に言われる。

なんでもかんでも「私が帰ってきたから」と言われると嬉しいも有難いもどこかに行き、うんざりする。

私は母のなんなのだろうか。

気付いてしまった違和感はどうすることも出来ない。
私は母から離れるために、実家に帰らない選択をした。

去年のお盆に帰省してから1年。
年末も未定、来年のお盆も未定だ。

そもそも年末に「帰省」しないといけない理由、
「お盆」に帰省しないといけない理由とはなんなのだろうか。

正社員として月曜から金曜まで働くお仕事を長くしていた時は、職場のお休みという「タイミング」があったが、そんなタイミングから外れた生活をしている今、お盆だろうがお正月だろうが、特にそこにこだわる必要はあるのだろうか。

ご先祖様を偲ぶお墓参りやお寺に行くことが出来ていないところは気にはなるが、必ずしもそこに「行かなければならない」という理由はどこにあるのだろうか。
どこにいても思うこともできるし、手を合わせることもできる。
対象物とされる「象徴」と「対面」していれば分かりやすいが、心や気持ちはどこにいても届くのではないかと思ったりもする。

そんなこんなで帰らなかった娘は実家から距離を置き、ひとりで過ごした。

特にどこかに行くでもなく、家にいた。
結局それがストレスの少ないお盆休みになったようにも思う。

既婚だろうが、未婚だろうが、
「お盆」+「お正月」=「実家に帰る」
という先入観から外れてみると、なんだか楽になることもあるなと思った今年のお盆。

来年は誰とどうしているかなと考える。

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