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【シンフォニック=レイン】al fine感想。報われない想いをどうするの

ネタバレ注意

この記事は本作において核心となるネタバレが無限にある為、未プレイは見ないほうが良い。このゲーム買って全クリしてからきて。








ほんのちょっとでもいいから
ねえ 私を見て
あなたに心を見せたい
いっそ全て言えたら

報われない想いを どうするの

【秘密】岡崎律子

人を試す、という行為は神の領域の行いである。故に人が人を試すことは大いなる傲慢であり、罪だ。そして罪には罰がついてくる。

赦されるには、報われない想いをどうしたらよいのだろうか。

現実と嘘・理想と現実・罪と罰・アルとトルタ

まずal fineを選択し、少々テキストを読んだ時点ですごい違和感と脳の処理が追いついていない感じがした。少しづつ理解が追いつき、あの世界に対する真なる解像度が上がり理解できるようになった。その時にはもう脳から液体の漏れが凄まじく、多くの違和感や疑問だった点が溶けた。
このカタルシスは本当に素晴らしい。客観的にクリスを見る、ということの持つ本当の意味合いは初見でここまで辿り着いた人間だけが味わえる特権だ。この手の真相を知る前と後とで世界の見え方ががらっと変わるストーリーの中でもal fineは群を抜いて凄まじかった。その理由は大きく3つある。
1つは今まで主人公であるクリスの視点以外で世界を、ひいてはクリス自身を見ることができなかったということが徹底されていたから。それによる真実の世界が持つ凄惨さとクリスという人間の醜さが際立つ。
もう1つはal fineをやるまで見ることのできなかった世界、トルタという人間のおぞましく脆く儚くそれでいて可憐な守られるべき内面の話がとても完成度が高かったからだ。
そして最後にこのルートによって明かされる真実の多くは、他のルートにおいて不明瞭であった点に理解とそれに伴う新たな地獄を与える。これは特にファルルートの特に卒業公演とラストにて顕著に現れるため後述する。

嘘の箱庭で愛を試す

トルタは自分の気持ちに嘘をつき、クリスを嘘の世界に幽閉し続ける。クリスのためと割り切ったつもりでいるけどいつだって本当は全て投げ捨てたいと思っていた。贖罪の気持ちも罪悪感も持っていたけれど、本心の奥底には常にクリスが好きだからトルタとして好きだと言ってもらいたいという乙女らしい愛情が存在していた。
al fineにおいてトルタはずっと苦悩している。本当に最初から最後まで。
大人ぶってクリスを守ろうとするがそれでもトルタもまだ子どもだ。本当の大人であるコーデル先生やニンナから見れば2人の関係はあまりに脆く不完全だ。そういったクリスの視点では見られない懸念も苦悩し東奔西走するトルタの視点からならば容易に見えてくる。

トルタが最も愚かで未熟で、なによりも愛らしい点は幾度となくクリスの愛を試したことだ。クリスの言葉だけでは信じられず、彼の行動を以て自身への愛とアルへの想いを測り可視化しようとした点にこそ彼女の愚かさと傲慢さが詰まっている。
人を試すという行為は神の所業だ。故に人が人を試すという行為は最も傲慢な罪だ。彼女は自身の不安を解消する為に幾度となく行う。それはクリスの意志を尊重すると言いながらも、それでも心には自分の思う通りになってほしかったという欲望から来ているものだということはストーリーからも分かる。
自分を好きになってほしかった、またそれと同じくらいに彼女は嘘塗れの現実から解放されたいと願っていた。そして解放されたいと願う自分を赦してほしいという罪悪の念も抱いていた

クリスのことが好きだから、好きになってほしかった。そこが根底の全てである。クリスのことが好きだから献身することができるのだが、好きだから献身に徹底することができないという矛盾を孕んでいた。トルタはそんな自分のことを「醜い女」と客観的かつ自虐的に称していた。トルタのそんな姿は本当に見るに耐えない醜さを持つ反面、一途に思い続ける可憐さも持っていた。
クリスに食べてもらう為に練習した料理をトルタとして振る舞うことができない、自身の愛をアルのふりをすることで伝えられない。そしていつの日か真実を知った時に、クリスを傷つけると知っていてもアルとして嘘をつき続けることを選び続ける。
この二律背反を抱え、更に嘘で世界と自分を塗りたくったトルタの精神が壊れてしまうのは時間の問題だったのであろう。だからトルタは幾度となくクリスを試した。その不安を少しでも和らげたくて、気持ちを徹底させるために。クリスを守るという言い訳だけが、トルタへ彼の側にいる合法的な理由を与える。
クリスがずっとアルだけを一途に見ていたら諦められた、トルタだけを愛していると言ってくれたら嘘の世界の全てを投げ捨てられた。だがクリスは終盤までずっと迷い、揺れ続けた。それがどれほどトルタの精神を蝕み、苦しめているかも知らずに。でもトルタはそんなクリスが好きだった。誰にも2人は救えないし救われない、al fineとはトルタのたったひとり孤独な戦いだ。

自己防衛で現実を改ざんして生きているクリスと嘘で塗り固められた箱庭の世界にクリスを幽閉せんと生きているトルタ。だが結局のところ、クリスは大層なことを言ったりなんだとしてもトルタの真似をしたアルを見破ることはできなかった
それはクリスの時間が学院に来る前、事故の前で止まっていることを加味しても所詮はその程度だと言わざるを得ない事実だ。
結局、どのルートにおいても最後の最後までクリスという男は人として未熟で、甘く、本質を見抜くことができない。それは彼が持つ、いやまだ失っていないというべき純粋さによるものだ。それは間違いなくクリスの魅力であり同時にそのせいで数多の悲劇を招くこととなる。
ファルとトルタはその主導権、手綱を握っているのが相手だった為に事が好転する。だがリセルートだけはクリスが彼女が導かなければならない。自分の知らないところでトルタを初めとした多くの人間の善意に守られているだけの彼がグラーヴェという悪意に敵うはずもない。そして当然リセを守ることなどもできない。だからあんなにも不明瞭な「今」だけに固執した話になった。

クリスの美しい音色の源が「悲しみ」であるということの意味

クリスの才能、音色の魅力。それはクリスの深い悲しみから来ていた。そしてフォルテールという楽器は演者の悲しみに比例して美しくなる音色の楽器である。ということはコーデル先生の失恋の話からみてもそうだと断言してよいだろう。
クリスの抑圧したアルへの悲しみがフォルテールに乗り、それが美しい音色を生んでいたのだろう。クリスはアルとの事件によって精神の安寧を筆頭に多くにものを失ったが、引き換えにかけがえのない音楽の才能を得たのだ。あるいは元々持っていたものを引き出したのかも知れない。
悲しみとは向き合えば必ず時間が癒やしてくれるものだ。だがクリスの場合は違う。アルの事実とは向き合わずにずっと悲しみ諸共心の底に抑圧したままである。つまり、その深い悲しみはクリスが向き合わない限り消えることはない。
これこそがアーシノやファルが言う、クリスの才能の根底にあるものだ。

ファルルートに与える影響

少々脱線するがal fineによってファルとリセのルートに対する理解度が上がった話をする。

ファルはフォルテールの音色が悲しみにより研ぎ澄まされることを知っていた、明言はされていないが作中を見るに確定的だ。理由は2つある。
1つは卒業公演直前、ファルとの日々による幸せの渦中にあったクリスを悲しみに叩き落したこと。アーシノを利用していたこと、クリスをも利用していたこと、そして自身の心情の暴露。それによってクリスから深い悲しみを引き出した。
前述した根底にあるアルとの悲しみではない、ファルが与えた自分だけの悲しみだ。それはクリスにとって初めての裏切りの味である。アルを裏切った自分がファルに裏切られる
クリスにとって初めての感情だったから、卒業公演の直後にコーデル先生から今までにない感情の揺さぶられ方をしたと言われる。ファルはこれを狙っていたのだ。
アルとの悲しみだけでない、自分も追い打ちの悲しみを与えることでそ感情は複雑に混ざり合う。それはファルにしか出せない、唯一無二のクリスの音だ。

だがそれは卒業公演の後にクリスが吹っ切れることでそちらの悲しみは薄れる。同時にファルと生きると決めることでアルとのことも割り切り、クリスの中で止まない雨が止む。
だからファルはもう一度アルへ会いに行く。雨は止んだが現実を何も思い出していないクリスを再び悲しみの底へ叩き落しに行く。そうでなければ彼のフォルテールの音色は研ぎ澄まされないから。
アルに会いに行った上で、その現実をまた乗り越えさせない。アルと会った際の描写はないが最後にまたクリスが止まない雨の中にいることから、乗り越えさせなかったことは見て取れる。
ファルは最初から最後までクリスという人間を見ていない。彼の音楽の才能、音色だけを自分が成り上がる為に利用する。そのための手入れ、調律の一環として彼を永遠に悲しみの檻に閉じ込め続ける。そして、より優秀で自分の役に立つフォルテール奏者が見つかれば、容赦なくクリスを捨てるであろう。
徹底して、ファルはクリスを利用するために飼っているということが分かる。al fineではそこに対する説得力と解像度が増す。

リセルートに与えた影響

これと同様の深みを与えるということが、リセルートにも存在する。演者の悲しみがフォルテールの音色を美しくするということをグラーヴェが知らないはずはない。
グラーヴェのリセへの虐待は、フォルテール演者になるために必要なことだった。歌いたいのに歌えない、クリスと一緒にいたいのにいられない。この精神の抑圧はリセに深い悲しみを与える。それによりフォルテールの音色が美しくなる。

またグラーヴェはクリスのフォルテールの腕を、才能を少し買っていた。そのためにあるいはリセの代わりにクリスを利用するという手段もあったかも知れない。だが結局クリスはそこまで腕を持っていくことができなかった。
それはなぜか、リセルートにおいてクリスは自分からアルに別れを告げるから。それはつまり永遠にアルの真実を思い出さないということに他ならない。この悲しみこそがクリスの才能の源であったのに、それを自ら捨ててグラーヴェを唸らせることなどできるはずもない。
リセルートの卒業公演前は希望に満ちている。不安こそあったものの、卒業公演さえ上手くいけば2人で生きていける。リセの呪縛は解ける手前まで来ていた。そんな状態でクリスに強い悲しみなど生まれるはずもない。
もしもクリスが最上の悲しみと共に卒業公演へ挑んだらリセの代わりにグラーヴェと音楽家の人生を歩んでいたかも知れない。それが叶わなかったからあのような結末になった。

グラーヴェはクリスとの別れの言葉に音楽の道を捨てることを勧める。「実力はあったが、頭が悪すぎる」と。
ここで言う「頭が悪すぎる」という言葉は多くの解釈が可能だ。実際、現実からも未来からも目を逸して都合の良い「今」だけを生きる刹那的な人生は頭が良いとは言えない。だがそれ以上に、フォルテールに対する自身の才能を正しく認知できないことを「頭が悪い」と言ったのだと私は考える。
フォルテールの持つ音色の源が悲しみだと分かっていて、その力を正しく利用すればあるいはグラーヴェを納得させるだけに値する演奏をすることができただろう。そしてリセを彼の元から正当に引き取ることもできたはずだ。だがクリスは刹那的な目の前のリセとの瞬間を選んだ。だからあのような結末になった。
だからリセルートにおけるバッドエンドは、クリスがその道を選ぶのが遅すぎたという意味でバッドだったのだと言える。そしてプロの音楽家を目指すという生き方は、その音楽の道に幸福がないという意味でクリスにとってはバッドエンドだったのだ。
だが傍から見れば自身の才能を確実に利用し、望むものを手にせんとするバッドエンドのほうがグッドエンドに見える。少なくとも私にはそう見える。そこが非常に面白い。

幸せを、救済を得るために彼女の死が必要だった

終盤、全ての確執を解いたクリスとトルタの元にアルが死んだという現実が襲ってくる。これによりクリスは元々そうであったが、自分の周りにはトルタしか残っていないという現実を噛みしめる。そしてトルタはアルとの呪縛から解放される。
クリスが現実を受け入れ本当の意味でトルタと生きていくと決めたから、降り続けていた雨が止んだから、クリスとトルタは救われるべきだった。それがアルの死だ。
アルが目覚めればまた無駄な感情の揺らぎが生まれ、葛藤に苛まされる。だが死んでしまえばそれっきりだ。そしてアルが死ねばもうこの世にトルタと同じ顔の人間は存在しない。トルタはアルのふりをしていた、という過去でさえ確執のある人物がいなくなるのであればそれはいつか思い出になる。だからアルは死ぬ必要があった。トルタが救われ、幸せになるために

トルタは、あの夜にトルタとしてクリスに抱きしめられた瞬間にある確信をして死を望みさえする。クリスに抱きしめられているこの瞬間こそが幸せのピークで「これから、幸せになれないからだ。」と。
どのような形であれアルが生きているという事実がある限り、トルタからこのような罪の意識は消えず、自分を赦すことはできない。これはトルタが償うべき罪と罰だ。愛する姉を裏切り、最愛の人を騙して試し続けた彼女が味わうべき贖罪だ。
その罪をクリスに明かし、自分自身に嘘をつくこともやめて全てに向き合うと決めたからこそ、トルタは救われる。アルの死という形で呪縛から解放される。それにより、初めてトルタは赦しを得る。

愛を与える者と求める者、2人は1人

この罪と罰をテーマとしたトルタの苦悩と拭われない気持ち悪さが本当に最高であった。クリスからの愛という本当にほしいものに近づけば近づくほど自分を赦すことができなくなり、なにもかも投げ捨ててしまいたいと罪からの解放を望むトルタの姿はあまりに悲しく美しかった。
序盤の「信じすぎて後で傷つかないようにね」「自分の知ってることが全てだと思ってる人に、言われたくない」という言葉はこのルートをやってから見ると、トルタからの救いを求める言葉だということが分かる。気付いて思い出してほしい、解放されたいという気持ちがひしひしと感じられる。
というかもう全編通してトルタがあまりにも報われないが、その姿が悲壮的になりすぎない。なぜならばトルタは罪を重ね続けるから。嘘を嘘で塗り硬め、その中に自分の欲望を降り混ぜる。報われなさにちゃんと罪が伴っているのがあまりに美しく、素晴らしい。
他のルートにおいて無償の愛を与える者として描かれ続けてきたアルは、貪欲に愛を求めるトルタの別側面と言えるだろう。そうありたいと、そう割りきれていたらどれだけ楽であろうかという願いの具現化でもある。

クリス視点によるトルタルートだけで不明瞭だった部分が解消されるだけでなく、他のルートにも新たな理解と解釈を与えてくれるのもとても良かった。特にファルルートの終わり方に付与された、圧倒的な救われなさはあまりにも最高と呼ぶに相応しい。

最後のルートへ

アルバムのCG空き欄を見るに恐らく残るルートは1つだけであろう。そこに何が待っているのか全く検討はつかないが非常に楽しみである。正直既に大分ストーリー的にもキャラ的にも満足しているので求めるものもさほどない。
あと触れられるだろうとすれば恐らくフォーニの話であろう。だがあれは恐らく追い詰められたクリスの生み出したイマジナリーフレンド。クリスが1人でいない為に自ら生み出した存在、だからどのルートでも他の誰かと一緒にいるにつれてフォーニの現れる時間が減り、最後にはいなくなる。イマジナリーフレンドの典型だ。
だがあの世界には魔力なるものの存在が明言されている。それがどのレベルのものかは分からない、感情のように目に見えないものをそう呼んでいるだけかも知れない。しかし魔力があるというのならば本当に音楽の妖精なる存在もいるのかも知れない。
そういったところでフォーニに対して思うところもあるのでそれはそれで楽しみである。どちらにせよ最後に残るものの良し悪しに問わず、このゲームを楽しむつもりだ。

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