見出し画像

【家族の話】母の日に「卒親」について考えてみた。

最近、Twitterで新しい人と出会い、お話させてもらう機会が増えた。単純に嬉しい。この数ヶ月で人間関係がガラッと変わり、今も変わり続けている途中なのだと思うと楽しみでもある。

それは、自分の変化でもあるのだと思う。少しずつだけど、自分の知っている宇宙の話とかを出来るようになって、それと同時に、もっと自分に制限なく出せる場所を作りたいなという欲求も出てきた。
そして。だんだん、人の期待している「占い」と自分のしている「占い」の認識にちょっとズレが生じていることにも気がついてくる。自分にとってはカードや数字は宇宙と繋がるための補助的ツールだけど、そうではない人もいるらしい。ということに気がつくまでにちょっと時間がかかってしまった。この修正も少しずつしていかなくては。

自分が人とはものの見方が少し違うことには、幼少期からうすうす気が付いていた。3歳の頃の遊びは《学会ごっこ》だった。恐竜が好きだったので、学会で「この恐竜の角は何のためにあるのか」などテーマを決めてディスカッションする遊びだ。当然ながら、周りにそれに付き合ってくれる子はいなかったので親相手にやってた。

後に、自分の過去世のひとつにローマの学者(哲学者とか数学者とかそういうの)があると知った時は妙に納得してしまった。3歳で恐竜展でマニアックな質問をする女の子はちょっと変な子だったろう。幸い、親は教育熱心だったので図鑑なども買い与えてくれたし、博物館にも連れてってくれた。「女の子はこういう遊びを」のような変な矯正はされなかったけれど、変わっているとは思われていたようだった。
父はきっと自分なりに知っている教育方法で私を伸ばそうとしたんだろう。早期教育だの英会話だの、色々と私に与えてくれたけれど、あまり興味が持てなくて身にならなかった。そこは申し訳ないなと思う。

何とか親の希望通りに大学まで進学した後は、私は鬱積していたものが溢れてメンタルがかなり不安定になっていた。精神的に自立していなかったとも言える。
ここでは詳細は省くが、親の不仲や離婚などもあり、今で言う軽い教育虐待のようなことも受けた。そこから離れて、そこからは両親とは付かず離れずの関係(いや、かなり距離を取る関係)でいる。それは現在も続き、心理的は距離は離れたが、それによって安寧を得ているように思う。

育ててもらったことには感謝しているし、それなりに関係を作る努力もしてきた。20代までは、家族の中でも役割をこなす「いいお姉ちゃん」だったと思う。
だけど、結局何度努力しても家庭は壊れるし、母は差別と偏見と支配欲の塊だし、父は主に子供たちの進学や成績以外のことには無関心で、あとは自分の勉強やキャリアのことばかりで家庭を顧みなかったし、解散するのは時間の問題だった。私に出来ることはなかった。
この「私に出来ることはない」という諦観の気持ちが、結局のところ私を楽にしてくれたように思う。出来ることはしたが、相手には届かなかった。なので仕方ない、と言う感じ。

血縁の家族は家族ではない。だから、自立するまで世話になったとは思うけど、もう家族の情のようなものはあまり感じられない、というか、そのように感じられる関係を、努力して作らなければ壊れてしまうものなのだと思う。
私の親(主に母)は、それが理解できない人だった。どんなに酷い言葉を浴びせても、感情のままに怒鳴りつけても「家族だから許される」と思っている人だった。そんなわけないのに。
人との関係は決まっているものではなく、流動性があるものなのだと思う。どんなに親しくなっても、何かの拍子で離れることもある。反対に、緩やかに長く続くものもある。そういう流動性が理解出来ないようだった。
「結婚したんだから」「家族なんだから」「親子なんだから」と、その箱を守ろうとする。箱を守るのに必死で、中身が腐ってしまっても見ないふりをする。それを変えようとすると怒る。どんなに中身が腐ってても、箱があるほうが価値があるらしい。その箱に押し込めようとするから、関係が壊れるのだと理解できないらしい。そういうのに疲れてしまった。

話が通じない・理解されないことへのストレスが凄くて、今でもそれは苦手だ。だから結局こうして文章などで自分の考えを書く方が気楽でストレスが少ない。
どうも家族には、私の生き方や思考は理解出来ないらしい。それは一向に構わないのだけれど、理解してもらおうと言葉を尽くしても、相手にその回路がないようだと悟るのにしばらく時間がかかってしまった。「話したら分かり合える」なんていうのは幻想で、話しても理解出来ない溝が深まるだけだった。はなから理解する気などなくて、いかに私の話の弱点をつき、私を籠絡するかしか考えていないのだから当然だった。


何でこんな話を書こうと思ったのか。世間では昨日が「母の日」だったので、Twitterでは子供に何かを貰って嬉しいと思うというツイートをたくさん見かけた。反対に、親にプレゼントを捨てられて悲しかったというツイートもけっこう見かけた。どちらもそれぞれにとっては真実なのだろう。それぞれが同時にある世界なのだ。

だから、感謝出来る人はすればいいし、これまでの関係性で感謝出来ない、そんな心境になれない人はそのまま何もしなくていいのにな、と思った。だってそれが、数十年「家族」という関係を作ろうと試みての結果なのだから。その結果は双方が受け止めるべきだ。
「子供がなにもしてくれない」と嘆く前に、子供がなにもしてくれないような関係しか、自分は作れなかったのだと親は自分を省みる方がいいと思うし、あるいは親子だからと殊更に親しくしようとしなくていいのではないか、と自分の人間関係にも思いを馳せてほしい。
親の権力は絶大だ。こんなことを書いても「親に楯突くなんて」とねじ伏せられてしまうこともある。日本はまだ、その傾向が強い。それをやめていくのは今この瞬間からなのだと思う。

血縁は繋がりの深さを担保するものではない。つまり、血縁は家族でも何でもない、何の繋がりもない。それぞれ他人で、別個の由来を持つ魂だからだ。だから、適切なタイミングで巣立ち、「卒親」してもいいんじゃないだろうか。
そういうことを当たり前にしていきたい。その上で(卒親した上で)人として付き合いたいのでれば付き合えばいいし、そうでないなら離れればいい。そういうシンプルなものとして捉えた方が、人間関係は楽になるのではないか。そう思ったので書きました。

ではでは、また次の更新で。


▼Twitter更新しています。よければフォローしてください。


▼占い・セッションお申し込みはこちらから


読んだら「スキ」押していただくと、今日の運勢が分かりますのでぜひ押してください。


こちらの記事はここから先に文章はありませんが、有料記事にまとめます。投げ銭のつもりで、ぜひ単品ではなくマガジンでご購入ください。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートはスタバ代など心潤うことに使わせていただきます❤️