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表現するということの重さ。



こんばんは、お久しぶりです。Susanです。
みなさんお元気ですか?最近は本当に暑いですねえ。

書きかけnoteがどんどん溜まっていくことにもどかしい気持ちでいっぱいです。それでも月一くらいはちゃんと更新したい!という思いで、なんとか完成させたnoteをひとつあげます。

今回はTwitterにいつぞや呟いた内容のまとめみたいなものです。


それではどうぞー!

強い言葉・強い表現が苦手だった



わたしは、強い言葉・強い表現が苦手だった。

たとえそれがわたしに向けられたものでないにしても、強い表現をする人に対して、一種の防衛本能のように「嫌悪・苦手」の感情が入りやすかった。

それはきっと、その言葉が誰かを傷つけてしまう可能性を勝手に感じていたし、その言葉によって誰かからマイナスな感情や反応・反響が生まれることを見たくないと感じていたからだと思う。


だからわたしは、日常生活においても、テレビに出てくる誰かでも、強い言葉・強い表現する人を見かけるたびに、「なんでもっと優しく言えないのだろう?」「もう少し、言い方があるだろう?」と感じていたし、「もっと上手く生きればよいのに」と思うことが多かった。

ある日のこと。記憶は曖昧だが、おそらくTwitterで「だれも傷つけない表現」について、そんな表現があるのか否かという話題が上がっていた。そこでわたしはこんなツイートを見つけたのだ。


このツイートを見た時に、ある種の衝撃を受けたと同時に、わたしの中に心当たりしかなくてこの言葉が全身に沁み渡った。

わたしが文字を書くのに非常に時間がかかる理由は、そういうことだったのかと頭を殴られたような気分だったのだ。自分の想いは伝えたいくせに、誰にも傷つけられたくない、という感情が強いからこそ、それを表に出すまでにものすごく時間と労力がかかる。

わたしは、自分の大切にしていた考えや言葉に対して否定的な言葉を受けることも怖いし、自分が表現したことによって誰かを傷つけるのも嫌な思いをさせるのも怖いのだ。

ちなみにここで補足すると、否定的な言葉を受けるのが怖いこと異なる意見を受け付けないことだと考えている。それぞれの考えは決して同じではないという前提があるので、わたしならこう考える・考えた等といった異なる意見には触れたいし、知りたいし、理解してみたい。だからこそ、自分の想いを誰かに伝えたいと思う。

そこから少しだけ、わたしの中で「強い言葉・強い表現」に対する苦手意識や抵抗感が薄くなったような気がした。それはきっと、自分の考えを吐露する時に、強い言葉や表現を用いることができるということは、自分が傷つくことも、誰かが傷つく可能性も、自分とは違う意見も受け入れていく(もしくは違ったままで良いと思える)その覚悟をも持っているということだと感じたから。それはわたしにとっては、中々できないことであり、とても簡単なことではないと気づいたから。

表現して生きる人々はすごい



感じたこと、思ったことをただ感じるだけ、思っているだけで、自分の中に抱え込んでる時間が長ければ長いほど、発信するスピード感はなくなっていく。それがただの趣味ならば、好きなように好きな時に言いたいことだけを書いて自分を納得させていけばいい。

けれど、表現というものを仕事にして生きていく人たちは、流行りに敏感で飽きるのがとても早い人たちを相手に、消費期限が短くなりつつあるこの世の中に対して、自分の想いや感情を乗せた何かを常に打ち出していかなければならない。そうすれば、発信するスピード感は最重要案件になってくるだろう。

彼ら(彼女ら)には「傷つけられたくない」や「自分を傷つける可能性のある誰か」にフォーカスしてウダウダ考える暇などなく、自分が世に出す作品や音楽や言葉、 また行動や態度、その全てによっていろんな声が上がることに対して覚悟と責任を持って、その場に立つしかないのである。

そう考えてみると、本当に彼らの住む世界はあまり過酷であり、そこで生き抜くことを覚悟した彼ら(彼女ら)はあまりにもすごい存在なのだ。

だから、たとえその表現が、その時に選んだ言葉が上手くない(と感じた)としても、その想いはちゃんと受け取りたいし、その中にある核を理解してみたいとわたしは心の底から思った。

わたしとあなたは違うから素敵



きっと相当な知性と頭の回転があったとしても、多方面に配慮ができた言葉を瞬時に話せる人なんてこの世の中に滅多にいないだろう。そしてまた、その「配慮ができた言葉」というのも「わたしにとっては(そう感じた)」という注意書きがつくことを忘れないでいたいと思う。

わたしが「感動する言葉、感銘を受けた言葉」が、他の人にとってもそうとは限らないし、誰かにとっては逆に「傷つく言葉」になるかもしれない。わたしにとっての「普通」は、誰かにとっては「異常」かもしれないし、誰かにとっては「特別」かもしれない。



"わたしがこう考えるんだから、みんなもそうに違いない"


誰もがこんな考えをしたことが一度はあるのではないだろうか。自分が全世界の神様であるかのような考えを、意識していなければ意外としてしまうのが、愚かな人間なのではないだろうか。

わたしはこの呪縛に気づいてからも、いつの間にか同じ呪縛に縛られているように思うことがある。だからいつも、わたしとあなたは違うこと、違う感性を持っていることが素敵であることを忘れないでいたい。


結局、その不器用さや無骨さも、全部生身の人間らしくて良いんだ。自分には決してできないことをできるあなたはすごいし、自分にできないことを同じようにできない時もあるあなたは愛しい。


いつもお互いのことを認めて、褒めて、愛していきたいし、そうやって世界が回れば、昨日よりも今日、幸せな一日になるような気がするのだ。


わたしには、即座にスピード感を持って発信する勇気も、強い言葉・強い表現を選ぶ勇気もない。だから、自分の中にはないものを持っている人は、どうしようもなく羨ましかったし、どこか怖かったし、無意識のうちに苦手だと感じてしまったんだろう。


そのことにようやく気づけたわたしは、自分の持っていないものを持っている人を今までよりも心から愛せるように、少しだけ成長したのだ。


表現することは楽しいけれど、その分、大きな覚悟が必要なこと。


どんな形でも表現をやめないあなたは愛おしい。


わたしの持っていないものを持つ、全てのあなたに愛をこめて。


2023.07.25.
Susan

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