文学フリマ東京初出店~試し読み~
前回の記事で1キロ体重が増えたと言ったが、その後何とか体重を戻した。安心してお昼にステーキ丼を食べた。そしておやつにチョコパイを食べた。何をやってるんだ、私は。
さて。11月になったので、予定通り文学フリマ東京37で販売するエンタメ小説『ラブホじゃなきゃダメなワケ』の試し読みを公開する。
公開するのは1~4章のうち、丸々1章分。量が多いので、前後に切って載せることにした。お好きなところまで読んで、買うかどうかの参考にしてもらいたい。
ちなみにこの本はアラサー女性4人の物語で、1章ごとに主人公が入れ替わる。
自分自身、群像劇があまり好きではないので、読んでいてストレスにならないよう配慮したつもりである。群像劇というより短編4つと考えてもらった方がいいかもしれない。
『ラブホじゃなきゃダメなワケ』
1章
小森詩織は専業主婦になりたかった。
詩織は主婦向け雑誌のコラム「ママの節約塾」に視線を落とした。
あなたが今朝使った化粧品、全部でおいくらですか。ファンデーションや口紅だけでなく、化粧水や乳液などの基礎化粧品も含めて、です。一万円? 二万円? 今回このコラムを書くにあたって私も計算してみました。すると一万五二九〇円もかかっていました。普段皆さんに節約を推奨する立場なのに、こんなにお金を使っていたのかとビックリしました。
そこで今回オススメしたいのが「百円コスメを賢く取り入れる」という方法です。百円コスメと聞いて、「大丈夫?」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。確かにひと昔前の百円コスメは粗悪なものもありました。でも今は違います。試しに売り場に行ってみてください。きっと、こんなクオリティのものが百円で買えるのかと驚くはずです。中には日本製のものもあります。こんなの使わない手はありません!
私はダイソーで、チューブタイプのアイシャドウを購入してみました。カラーはヌーディベージュです。発色が良く、時間が経ってもヨレたりしませんでした。ドラッグストアに売っているアイシャドウと遜色ありません。これがたった百円で買えるなんて本当に驚きです!
ダイソーには他にも、美白効果やニキビ改善に効果があると人気の化粧水「酒しずく」や、古くなったマスカラを復活させることができる「マスカラよみガエル」なんてアイデア商品もありました。百円コスメを賢く利用して、節約できると良いですね。
雑誌を閉じ、考えてみる。自分は化粧にいくら使っているだろうか。一つ千円にしても一万円、いや、それ以上かかっている。野菜の一円、二円の差は気にするのに、化粧品のお金には鈍感だったかもしれない。百円コスメか。今度見てみよう。
時計を見ると、もう家を出る時間だった。バッグを肩に掛け、玄関に向かう。
「ちょっと詩織」
靴を履いていると、渋い顔をした母がやってきた。
「何?」
「これからラブホに行くつもりでしょう?」
できれば親の口から『ラブホ』なんてワードは聞きたくないものだ。何だか背中のあたりがゾワゾワする。母はそんな娘心など知りもせずに続けた。
「ラブホなんて行って、結婚が破談にでもなったらどうするの?」
「破談になんかならないよ。ただの女子会なんだから」
そうだ。何もこれから男と致そうというわけではない。これから行くのは正真正銘、ただの女子会だ。何もやましいことなんてない。
ラブホ女子会はここ数年ブームになっている。SNSはラブホ女子会の感想で溢れているし、ネットでも特集記事がたくさん組まれている。最近じゃ、ホテル側も女子会向けのプランを用意しているほどである。だが、母くらいの年齢には理解できないらしい。
「何でラブホじゃないとダメなワケ?」
眉間にシワを寄せて迫ってくる。
「お酒とか飲んで騒げるから」
「あら、だったら居酒屋でいいじゃない」
「個室が良いの」
「じゃあ、カラオケにしなさい」
「疲れたらそのまま寝られるし」
「だったらビジネスホテルに泊まればいいでしょ」
「普通のホテルじゃ高いし、内装もかわいくないじゃん」
はあ、疲れる。別にラブホ女子会の良さを母に知ってもらおうとは思っていない。ただ放っておいてくれたらいいのに。
母はフンと鼻を鳴らした。
「だいたいねえ、ラブホなんてシャレた言い方したって、結局は『連れ込み宿』のことでしょう?」
連れ込み宿って……。
「いつの時代の呼び方よ」
「嫁入り前の娘が連れ込み宿に行くなんてはしたない」
「嫁入り後に連れ込まれたほうが問題じゃない?」
「うるさい」
母ももっともだと思ったのだろう。それきり何も言わなくなった。
「じゃあ、行ってくるから」
その隙に家を出る。
「はぁー」
歩きながら溜息が出た。全く。母の過干渉には困ったものだ。私ももう二九歳。自分のことは自分で責任を取れる年齢なのに。まあいい。忘れよう。今日は月に一度のラブホ女子会なのだから。
詩織は歩き出した。心なしか、いつもより体が軽い気がした。
電車に乗り、待ち合わせ場所に到着する。すぐに女性三人が駆け寄ってきた。右から「まよなか」「魯肉飯」「独り身ラッコ」。もちろん全員ペンネームである。皆とはSNSで知り合った。知り合ってだいぶ経つけど、本名は知らない。
「シヲ」
シヲというのは詩織のSNS上の名前である。
「ごめんね。待った?」
まよなかは顔の前で両手を合わせた。黒髪のポニーテールが揺れる。
「ううん。私も今来たところだよ」
「本当? ならよかった」
「じゃあ、行こうか」
すぐに目的のラブホに到着した。ひと昔前のいかにもラブホですというようなド派手な見た目ではなく、タイル張りのオシャレな建物だった。幹事の自分が先頭になって入る。受付を済ませ、部屋のドアを開けた。
「わあー」
瞬間歓声が上がった。ピンク色の壁紙。猫足のソファ。天蓋付きのベッド。天井には当たり前のようにシャンデリアがぶら下がっている。シックな外観と違い、女子の理想をこれでもかと言うほど詰め込んだ部屋である。ホームページで見た通りだ。
「かわいい部屋じゃん。でかした、シヲ!」
独り身ラッコが乱暴に頭を撫でてきた。
「やめてよ、ラッコさん」
手を払うと独り身ラッコは「あはは」と笑った。目じりに笑いジワが浮かぶ。一〇代のころから笑うとシワができるのだと前に言っていた。優しいブラウンの髪を束ねていないのも、シワを隠すためだとか。
「かわいいけど、私と部屋とのギャップエグくない?」
魯肉飯が自分を指さした。服についたチェーンがジャラリと音を立てる。
「確かに」
思わず笑ってしまった。本当にこの部屋に合っていない。
魯肉飯は四人の中で一番治安が悪そうな姿をしている。エメラルドグリーンの髪で、耳にはたくさんのピアスが付いている。そのうえ、いつも煙草を咥えていて(今は火をつけていない)、服はいわゆるサブカル系だ。あちこち破けていて、チェーンが付いている。この砂糖菓子のようにかわいい部屋に魯肉飯。それはそれは似合わない。
「笑いすぎ」
肩を軽く叩かれた。
「ごめんごめん。あまりにもかわいい部屋に似合わないから」
そう言いつつ、この中で一番かわいいのは魯肉飯だと詩織は思っていた。たぶん魯肉飯以外は全員そう思っているはずだ。大きな瞳に、小さな口。背は一五〇センチほどしかない。とっくに成人しているらしいが、下手したら一〇代に見えるほどの童顔だ。
三人と初めてリアルで会ったのが約一年前。ラブホ女子会をするようになったのが半年ほど前のことである。皆ほどほどにオタクで、ほどほどに腐っている。だから居心地がとても良い。
でも、初めてのラブホ女子会のときは緊張した。カフェやカラオケで会うのとはレベルが違う。皆も気を張っていたように思う。
「じゃあ、行こうか」
そう言うと、三人がピタリと後ろに付いてきた。
「ちょっと、何で私が先頭なの?」
「だってシヲが幹事でしょ」
「そうだけど嫌だよ。魯肉飯が先に歩いて」
「何で」
「この中で一番背が低いから」
「今、背の順の必要ねーだろ」
そんな具合に先頭を押し付け合いながらホテルに入った。案外あっさりと受付が終わり、ルームキーを渡された。「こんな簡単に入れるんだね」と誰かが言った。
部屋に入ると、少し緊張がほぐれた。ベルベットのソファを荷物置きにして、探検を始める。まよなかは「ちょっと待って。お風呂光るんだけど」と風呂場で叫び、魯肉飯は「ちょっとこれ見てよ」と大人のおもちゃを見せて回った。ラブホの空気に飲まれたのか、みんなやたらとテンションが高かった。そういえば、回転ベッドの話で妙に盛り上がった。
ひとしきり騒いだ後、皆で特大サイズのベッドに寝転がった。すると「昔、ラブホのベッドって回転したらしいよ」と独り身ラッコが言い出した。
「えっ、本当?」
聞くとラッコは頷いた。
「うん。回転ベッドって言うんだって」
「何で、何で回るの?」
「さあ? そこまでは知らないけど。単純に回ったほうが楽しいからじゃない?」
「アミューズメントパークみたいなものだったんだよ、きっと」とラッコが続けた。
「大人のメリーゴーランドってこと?」
「そうそう」
「メリーゴーランドでヤるなんて、昔のカップルはとんでもないな」
魯肉飯の言葉に、皆が「確かに」と笑った。
最初こそ緊張したけど、ラブホ女子会は最高に楽しかった。今では月に一回、このメンバーでラブホ女子会を開いている。
「じゃあ、とりあえずお酒とおつまみ頼む?」
注文用のタブレットを手に取り、操作する。
「山盛りポテトは絶対でしょ。後は何が良い?」
皆が言ったものをどんどん注文していく。お酒とおつまみが運ばれてきたら、本格的に女子会のスタートだ。日ごろの愚痴や最近見たアニメなど、他愛もない話をする。
初期のころは私たちも、ラブホ女子会で定番の遊びに興じていた。コスプレ衣装を持ち込んで写真を撮り合ったり、BLアニメを巨大スクリーンに映し出したり。ひとしきり楽しんで今は、食事をしながらのおしゃべりに落ち着いた。そんなのカフェや居酒屋で十分ではと母みたいな人には言われそうだが、ラブホはとにかくコスパが良いのだ。料理が安くて、アメニティも充実している。他の客に話を聞かれる心配もない。汗をかいたらお風呂に入れるし、疲れたらそのまま寝ることだってできる。こんな最高な空間は他にないだろう。ラブホをカップルだけのものにするなんてもったいない。
「そういえばさ、ビルなんかによく『定礎』っていうのあるじゃない。
あれって何なんだろうね?」
まよなかがフライドポテトをかじりながら言った。そう言えばよく見かける。
「何なんだろうね」
「友達に聞いたら、会社の名前だって言われたんだけど」
「そんなわけないじゃん」
「だよね」
二人で笑っていると、魯肉飯が口を開いた。
「あの中に建物の資料とか入ってるんだよ」
「へー、よく知ってるね」
「前にテレビでやってた」
「じゃあ、定礎泥棒なんていうのも出ちゃうんじゃない?」
独り身ラッコがビール片手に言った。定礎泥棒って……。
「金目のものは入れないんじゃないかな」
そう言うと、そりゃそうだと皆が笑った。
ああ。こういうどうでもいい話って、どうしてこんなに癒されるのだろう。月に一回、これがあるから頑張れる。結婚してからもラブホ女子会は続けたい。大丈夫。直人ならわかってくれるはずだ。
今度婚約者にラブホ女子会の話をしてみようと詩織は思った。
☆
月曜日の午後。詩織は直人と会うための服を選んでいた。アフターファイブに婚約者とデート。自然と胸が高鳴った。
少し前まで、月曜日になると首を吊りたくなっていた。会社に行かなくちゃいけないから。新卒で入った会社は一言でいえば最悪だった。思い出しただけで、気分が悪くなる。
就活に苦戦して、やっと入れたのは志望業種ではない、よく知らない会社だった。気に入っていたのは事務職採用という点だけだった。しかし、この事務職が想像以上にハードだった。
総務部に配属され、給料関係や社会保険を担当することになった。だが給料計算は複雑すぎて、しばらくは何が何だかわからなかった。社会保険の書類も難しくて、何度もミスした。
少ししたらさすがに慣れたが、それでもハードなことに変わりはない。毎日一時間は残業した。でも「仕事が終わらないのは能力が低いからだ」と上司に言われ、残業申請を何度もはねられた。結局、残業代は半分ももらっていない。
会社での人間関係もあまりよくなかった。セクハラ発言ばかりする部長。男性社員にしか挨拶を返さないおばさん社員。私には高圧的なのに、他の社員には強く言えない内弁慶の上司。
この上司が特に最悪だった。面倒なのか、ほぼ白紙の書類を出してくる社員がいる。住所も電話番号もマイナンバーも空欄のまま。書いてあるのは名前くらいだ。あまりにもナメているので突き返そうとすると、上司が必ず言うのだ。
「それくらい調べて書いてあげなよ」
確かに総務部事務の私は、社員の住所も電話番号も、マイナンバーだって調べられる。だが、住所やマイナンバーを閲覧するにはパスワードを入力しなければならないし、フォルダの中から該当社員を探さなければならない。代筆も楽ではないのだ。本人なら自分の住所を書くくらい、大した労力じゃないだろうに。面倒だから。時間がないから。そんな身勝手な理由で、私の仕事は無限に増えていった。
毎日嫌な人間の中で、嫌な仕事をする。まるで地獄だった。何とかこの地獄から抜け出したい。そう思っていたとき、ゼクシーの広告が目に入った。
そうか、結婚すればいいんだ。結婚すれば相手に養ってもらえる。嫌な思いをして働かなくていい。地獄に一筋の光が見えた気がした。
その日から私の婚活がはじまった。とりあえず、片っ端から友人に「良い人がいたら紹介してほしい」と頼み込んだ。男性に気に入られる服装やメイクを研究し、誘われた合コンには必ず行った。
少しして、友人の優子が大学の先輩を紹介してくれた。それが直人だった。直人は公務員で、区役所で働いている。まさに理想の結婚相手だった。
数回デートしたのち、付き合うことになった。この人を逃してはならない。私は直人に結婚してもらうため、猛アピールした。
週末には必ず家に行き、掃除と洗濯をした。男を掴むには胃袋を掴め。そう信じて、手料理もどんどん食べさせた。直人は好き嫌いが激しく、気に入らないものは一口も食べなかった。だから日々、直人好みの味を研究した。
洗濯、掃除、料理。直人の生活の全てをサポートした。疲れた日もあったが、決して手は抜かなかった。睡眠時間を削ってでも、直人の家に通った。全ては結婚してもらうため。
二年ほどそんな生活を続けた末、ついにプロポーズしてもらえた。小さいながらにキラキラ輝くダイヤモンドの指輪を見たとき、泣きそうになった。やっと努力が報われた。私は幸せになれるんだ。そう思った。
直人は私を専業主婦にしてくれると言ってくれた。それで先月無事に寿退社することができた。今は実家に戻り、最後の独身生活を送っている。
「よし」
鏡の前で姿を確認してから、家を出た。待ち合わせは新宿のカフェだ。もう少し近くのカフェでも良いのではと思ったが、そうは言わなかった。直人はカフェ巡りが趣味で、休日には東京中のカフェを訪れている。きっとまた、良いカフェを見つけたのだろう。デート先はたいていカフェだった。
直人はカフェを訪れては、その感想をインスタにアップしている。一度だけ見せてもらった。フォロワー数は三千人を超えていて、結構人気なようだ。
改札を出ると、人の多さに圧倒された。会社帰りの人に外国人観光客、これから飲みに行く人。さすがは眠らない街、新宿だ。人を避けながら目的地に向かう。
カフェは駅からだいぶ離れた半地下にあった。階段を降りると、重たそうなガラスのドアが見える。力いっぱいに押すと、ドアにかかったベルがチリンチリンと鳴った。上質なコーヒーの香りが漂ってくる。
店内は少し暗くて、BGMは控えめ。落ち着いた雰囲気の店だった。
「いらっしゃいませ」
すぐに店員が出てきた。
「待ち合わせなんですけど」
そう言って店内を見渡すと、奥に席に座る直人と目が合った。
「あっ、いました」
仕事終わりの直人はスーツ姿だった。髪はセットされ、髭も綺麗に剃っている。平日の直人は休日に会う直人より数段カッコいい。
「何?」
そう思って見ていると、直人は不思議そうに首を傾げた。
「なんでもない。それより待った?」
「いや、今来たところだよ」
「そう? ならよかった」
直人の向かいに座る。直人の前にはコーヒーが置かれていたので、同じものを注文した。
「休日にばっかり会ってたけど、平日の夜に会うっているのも良いものだね」
「そう?」
「結婚してからも、たまにはこうしてデートしたいね」
「そうだね」
直人はあいまいに笑った。
会話が途切れたところで、ちょうどコーヒーが運ばれてきた。一口飲むと、まったりとした味が口いっぱいに広がる。やっぱりプロの入れるコーヒーはおいしい。高いけど。
「ねえ、詩織」
「んっ、何?」
「オレと別れてくれない?」
別れる? まさか聞き間違いだよね? そう思って直人の顔を見た。すると、直人は気まずそうに視線を外した。
コーヒーカップを置く。別れるって何?
「どういうこと?」
確認する声が震えた。不安で胸がいっぱいになる。直人はこちらを向かないまま言った。
「実は他に好きな子ができた。ちょっと前から付き合っている。その子と結婚したいから別れてほしい」
「えっ、だって」
好きな子ができた? 別れてほしい? 聞こえてはいるけど理解ができない。だって私たちは婚約しているのに。指輪だってちゃんともらったのに。
「冗談だよね?」
お願いだからそうだと言ってほしい。しかし、直人は首を横に振った。
「オレは本気だよ」
「私たち、婚約してるんだよ」
「うん。そうだね」
「ご両親にも挨拶したし」
「うん」
「会社も辞めちゃったし」
「うん」
「うちの親だってすごく喜んでいるのに、別れてほしいなんて」
「ごめん」
「ごめんじゃないよ」
涙で声が詰まった。嫌だ。別れたくない。直人が好きだ。直人が他の人と結婚するなんて考えられない。それに、せっかく専業主婦になれると思ったのに。幸せになれるはずだったのに。また地獄に逆戻り? そんなの嫌だ。絶対。
「直人、私の作る料理好きでしょ?」
そう切り出すと、直人は怪訝な顔をしながらも頷いた。
結婚は直人にとってもメリットがある。そのことをわかってもらえれば、きっと考え直してくれるはずだ。私はもうあの地獄に戻りたくない。何としてでも説得しなければ。
「別れたら私の手料理、もう食べられないんだよ」
「まあ、そうだけど」
「それに洗濯物はどうするの? 私がやらなきゃすぐに溜めちゃうし、アイロンがけもできないでしょう。部屋の掃除だって、私がやらなきゃしないじゃない」
そうだ。直人の暮らしは私が支えてきたのだ。私と別れたら、直人だって困るはず。
「その好きになったっていう子は掃除、洗濯、料理、ここまでやってくれるの? 直人をちゃんと支えていってくれるの?」
「違うんだ」
しかし直人は首を振った。
「結婚ってそういうものじゃないだろう」
「え?」
「オレも詩織と結婚すれば家事をやらなくて済むし、良いかなって思ってた。でも、彼女に出会って考えが変わったんだ」
直人は真っすぐこちらを見つめて言った。
「結婚は相手に何かしてもらおうと思ってするものじゃない。結婚は愛する人とするものなんだ」
「愛する人」
繰り返すと直人は力強く頷いた。
「オレは彼女を愛してる」
自分に向けられたものではない「愛してる」という言葉。これ以上に残酷な別れの言葉なんてないのではないか。
説得する気力が無くなってしまった。きっと、もうダメだ。何もかもお終いなんだ。直人は新しい恋人を愛してるんだから。私のことはもう愛していないのだから。コーヒーカップが涙で歪んだ。
☆
詩織はコンシーラーを塗り直し、涙の跡を隠した。あの日から、一人になると涙が止まらない。こんなときに法事だなんて、本当についてない。
今日は祖母の命日なのだが、祖母は一〇年以上前に亡くなっているため、大々的にはやらない。親戚で集まって食事をするだけだ。お坊さんも来ない。服装も普段着だし、会場も自宅である。そのため、詩織は朝から台所に立っていた。
あらかた料理を出し終え、やっと休憩をもらえた。でも、またすぐ行かなければならない。まだろくに親戚に挨拶もしていないし、料理が足りなければ何か追加で作る必要がある。親戚のオヤジ連中にお酌もしてやらなければならない。大きな溜息を吐いてから、洗面所を出た。
台所に戻ると、母が天ぷらを皿に載せていた。
「やっと戻ってきた。これ運んでちょうだい」
「うん」
皿を受け取り、お盆に載せる。油のモワッとした匂いがした。
「あっ、そうそう。結婚の件、皆にも話しておいたら? ちょうどいい機会でしょ」
「えっ」
驚いてお盆を落としそうになる。慌てて手に力を込めた。
「あーあ、何やってるの」
落とさなかったのに、母は非難めいた声を上げた。
まだ結婚が破談になったことを両親に話せないでいる。辛すぎて、どうしても口に出すことができなかった。でも、これは自分だけの問題ではない。母にもちゃんと伝えなければ。
「結婚は無しになった」
なるべく何てことのないように言った。でも母はみるみる険しい顔になっていく。
「どういうこと?」
「断られたの。直人に他に好きな人が」
「だから連れ込み宿なんか行くんじゃないって言ったじゃない」
事情を説明しようとしたが、母の声に遮られた。
「嫁入り前にそんなところに行くんじゃないってお母さん言ったよ。全く。あんたは人の言うことを聞かないんだから。そんなんだから振られちゃうのよ」
「ラブホ女子会は関係ないから」
自業自得だと言わんばかりの物言いに腹が立った。
結婚が無くなって怒られると思ったが、同時に少し期待もしていた。母なら私の悲しみをわかってくれるのではないか。優しい言葉をかけて、慰めてくれるのではないかと。でも、とんでもない話だった。ろくに話も聞かず、私が悪いと決めつけてくる。この人に何を言っても無駄だ。
「とにかく結婚は無しになったから」
それだけ言って、台所を後にした。
お盆を片手で持って、もう片方の手で障子を開ける。長テーブルにはずらりと親戚が並んでいる。間の襖を取り外し、居間と和室を一部屋にして会場を作っているが、それでも狭苦しいくらいだった。
「天ぷらが揚がりました」
そう言って皿をテーブルに置くと、「おねーちゃん」と言いながら輝星(きらり)が駆け寄ってきた。輝星は詩織の妹、沙織の子どもだ。確か今年で四歳になる。
「わーい、天ぷらぁ」
輝星は嬉しそうにピョンピョン跳ねている。畳が傷むのではと心配になるほどの勢いだ。
「よかったねー。輝星は天ぷらが大好きだもんね」
沙織は呑気にそんなことを言いながら、ビールを飲んでいる。数年前まで法事となれば沙織も一日中働いていた。それなのに嫁に行った今ではすっかりお客様だ。どっかり座って飲んだり食べたりするだけ。あまりの待遇の差に、苛立ちを覚える。ちょっとくらい手伝ってくれてもいいのに。私はビールどころか、まだ何も食べていない。
「あら、やっと顔が見られたわ」
こちらに気づいた叔母さんが近づいてきた。
「叔母さん、こんにちは」
「こんにちは、じゃないわよ。あんた、結婚はまだなの?」
結婚という言葉に顔が引きつる。今一番聞きたくないフレーズだ。
「ええ、まあ」
すると、叔母さんはわざとらしく溜息を吐いた。
「あらー、女はクリスマスケーキと同じなんだから急がないと」
「どういう意味?」
輝星は無邪気に首を傾げた。
「クリスマスケーキって、クリスマスの二五日を過ぎたらいらなくなっちゃうでしょ? 女も同じで、二五歳を過ぎたら人気が無くなっちゃうってことだよ」
丁寧に説明する沙織を詩織は睨んだ。そんなこと、子どもに教えなくたっていいのに。
「そうなんだ」
意味がわかった輝星は馬鹿にするような目でこちらを見てきた。
「お姉ちゃんがクリスマスケーキだったら、もう腐っちゃってるね」
輝星がそう言うと、叔母さんと沙織が笑い出した。
「ホントだねえ」
「輝星、うまいこと言うね」
三人で笑い合っている。詩織は頭に血が上っていくのを感じた。
何で? 何でちょっと結婚が遅いくらいで、腐っているなんて言われなきゃいけないの? 結婚してないってそんなにいけないこと? 私だって結婚したかった。結婚するはずだった。だけど……だけど。
「いいかげんにして!」
気がつくと、詩織は叫んでいた。三人の笑い声が止まる。他の声も消え、会場は静まり返った。
「ちょっとお姉ちゃん。たかが子どもの言ったことで、ムキにならないでよ」
沙織が小声で言った。すごく気まずそうな顔をしている。その数秒後、輝星が泣き出した。
「えーん、怖いよお」
耳が痛くなるほどの鳴き声で、頭に上った血が下がっていく。親戚中がこちらを見ていた。その視線は非難めいているように見えた。
いい歳して、小さい子を泣かすなんて。
そんなんだから、いつまでも結婚できないんだ。
そんな幻聴まで聞こえた。
いたたまれなくなって、会場を出た。そのまま階段を上がり、自分の部屋へと向かう。
ベッドに寝転んだ。自己嫌悪が襲ってくる。
やってしまった。子ども相手に何してるんだろう。こんなんだから、直人にもフラれるのだ。
あんなことをしてしまっては、もう会場には戻れない。母には後で怒られるだろうが、終わるまでここにいよう。沙織にはLINEで謝って、輝星にはケーキでも買ってやろう。そうすればきっと機嫌が戻るはずだ。
そのとき、机に置きっぱなしだったスマホが鳴った。もしかして直人だろうか? 詩織は淡い期待を抱いて、ベッドから降りた。
しかしスマホを見ると、独り身ラッコからのLINEだった。
「なんだ、ラッコさんかー」
落胆した声が出た。指でタップして、メッセージを開く。
次のラブホ女子会なんだけど、待ち合わせ時間を遅くしてもらえないかな? ちょっと予定が入っちゃって。
そうだ。来週はラブホ女子会だった。すごく楽しみにしてたけど、さすがに行く気分にはなれない。今ならまだ断れるだろうか? 仕事の都合とでも言えば、深くは聞いてこないだろう。いつも良くしてくれる皆に嘘を吐くのは心苦しいけれど、仕方がない。
詩織はスマホをタップし、文字を打ち込んだ。
(後編に続く)
ここまで読んでもらえてうれしい。
続きは明日更新するので、お楽しみに。
追記 続きはこちらから↓
文学フリマ初出店~試し読み2~|睦月ネロ (note.com)
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