わたしが戦争画を語るわけ~戦争画よ!教室からよみがえれ②
戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画による「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治とレオナール・フジタ
(2)わたしが戦争画を語るわけ
前回、私はこの連載で扱う戦争画について次のように定義した。
「大東亜戦争を題材として描かれた絵画の総称。「作戦記録画」「戦争記録画」といわれるものもある」
本題に入る前に、この定義に当てはまる戦争画を2点紹介しよう。1枚目は鶴田吾郎『神兵パレンバンに降下す』。2枚目は宮本三郎『山下、パーシバル両司令官会見図』という。
どちらも有名な絵なのでどこかで見たことがあるかもしれない。とくに2枚目は教科書にも掲載されていたと記憶している。ちなみに1枚目は戦闘場面だ。2枚目は戦闘場面ではなく会見場面となっているが、双方が軍服を着ているので戦争が題材であることはわかる。なお、それ以上のことはこの戦闘や会見についての知識がないとよくわからないーここではそのことを確認しておきたい。
さて、本題に入る。
私は美術や絵画についてはまるで門外漢である。
小・中・高校と図工や美術の時間以外、これといってアートに触れる機会はなかった。その後、私は30数年小学校教員として人生を過ごしたので、図工の時間に絵も教えたが、私と絵画のつながりはその程度のものである。
その私が、なぜ戦争画という限定付とはいえ絵画について語ろうという大それたことをしようと考えたのか?
じつは、私は歴史教育を自分のライフワークとしている(小学校の場合、歴史を教えられるのは6年生だけなのだが)。自分自身、少年時代から父親の影響もあり歴史が好きだったので、現役の頃は子どもたちに「歴史って面白い!」と思ってもらえる授業の開発に力を入れてきた。
若い頃にさまざまな先達から「授業」について学んだが、その中でも当時、筑波大附属小学校の有田和正先生には多くのことを学ばせてもらった。何よりも大きな影響を受けたのは、一枚の絵だけで1時間の授業を展開する手法である。
例えば、以下のような先生の指示から始って子どもたちが自分の意見を発表するところから授業が展開する。
「T これは何だと思いますか。四国の吉野川の上流のほうで、そこの正木初義さんという家です。(中略)これを見て、見つけたこと、気がついたことをノートに書きなさい。」(有田和正「江戸時代の民家のつくり」『授業研究』1985年8月臨時増刊号 明治図書 p10~25の授業記録より)
また,ある時は1枚の「出島」の絵を掲示して学習を展開している。この授業を参観したある研究者のコメントを紹介しよう。
「出島の絵の提示から、その時代背景を明らかにしてゆく前半19分間の流れは、まことに自然である。子どもは手もちの資料をフル動員して、さまざまな観点から発表する。それが授業の流れの中でいつのまにか総合されて、時代の全体像をうきぼりにしていく」(藤岡信勝「歴史授業のスタイルの変化」『授業づくりネットワーク』1991年4月号 学事出版 p60)
これは当時の私にとって「革命的」な手法だった。1枚の絵を観察させるだけで子どもたちは嬉々として授業に参加するのだから・・・しかも、自ら進んでのめり込むように。さらにその1枚でその時代や人物や事件の全体イメージを持つことができる。つまり、学習内容の「幹」ができる。そこからさらに「枝葉」へと進めばより一層、歴史の学習にハマっていくという展開なのである。
蛇足だが、なぜこの手法が効果的なのか?
それは、子どもたちに「初期探索活動」を保障しているからだ。これについて先に紹介した教育学者・藤岡氏の論文から引用する。
「新しい環境におかれた時、系統だった見方や、順次性を守った観察よりも、めったやたらに見て回るという行動がおこる。この探索活動(これを「初期探索」とよぶことにしよう)を学習者に保障してやることが大切である」(藤岡信勝「社会認識教育の方法」『岩波講座 教育の方法5 社会と歴史の教育』岩波書店 p98)
1枚の絵を見るときもこの初期探索活動が行われているのだと思われる。
さらに藤岡氏は、こうした「観察の観点を決めない学習活動」(つまり初期探索活動)が次の「観察の観点を決めた学習活動」を生み出すのだと言う。この2つは対立する概念だが「それにもかかわらず、一方の学習活動が他方の学習活動を生み出すという関係」になっていると指摘している。
それからというもの、私は歴史を教える1枚の絵を求めて探し回るようになった。
例えば卑弥呼を教える1枚はこれ(榮永大治良『女王卑弥呼』)。
源頼朝と鎌倉幕府を教える1枚はこれ(前田青邨『洞窟の頼朝』)。
戦国時代と織田信長を教える1枚は安土城の絵。
というわけで、授業で教材として使える「これは!」という1枚を探していたところ、日本の近現代史を教える教材として戦争画というジャンルにたどり着いたのである。
その中で、教材としての戦争画のみならず、戦争画が描かれるようになった経緯や戦争画を描いた昭和の画家たちの生き様などにも興味がわいて手当たり次第に関連する文献を読み漁っていた。
戦争画に関連する文献を読んでいれば、戦時中に戦争画を描いていた画家たちのリーダー的存在だった藤田嗣治に行き着くのは必然だった。すると、今度はこの藤田嗣治の人生が気になって気になって、関連本を1冊また1冊と読み進めたのである(以下の絵は藤田の代表作『アッツ島玉砕』)。
そこで知ったのは、戦後に藤田が周囲から受けたひどい仕打ちだった(もちろん他の作家たちも同じ)。
日本は戦争に負けた。であるがゆえに戦争画を描いたことで「戦争を肯定した」「戦争を賛美した」「戦争遂行の先棒を担いだ」と罵られたのである。戦後のエセ平和主義者たちからの糾弾の嵐が吹き荒れた。
そこにあるのはアートとしての物言いよりも政治的な思惑である。さらに日本人として初めてヨーロッパで名声を得た藤田への私的な妬みやヤッカミがある。戦争画を描いた画家たちはたくさんいるのだが、なぜか藤田のみが執拗な攻撃を受けた。つまりはスケープゴートにされたのである。藤田は失意のうちに日本を去り、後にフランス国籍をとってフランスの地で亡くなる。
私はこれを知って猛烈に怒りがわいた。
しかも、未だに戦争画を「のけ者」扱いする研究者、評論家、教育者がいる。あの戦争が終わって80年もの年月が経っているというのに。
私は思った。
美術の世界が戦争画を未だに「のけ者」にしようというなら戦争画を歴史教育の場で甦らせよう!そして、未来の日本を創る子どもたちにあの戦争は何だったのか?その真実を伝える教材にしよう!当時の日本人画家たちがどんな想いで戦争を描いたのか?それを伝えよう!
これが、門外漢の私が戦争画について語ろうと思った理由である。
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