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アピール能力は作者の「性格」に左右される(謙虚さや配慮が仇になる)

小説のクオリティーアピールする力は別物――今までの記事でも書いてきましたが、それを「別物」たらしめる最大の要因が「作者の性格」だと思っています。

アピールのために何が必要なのか分かっていたとしても、性格的にそれができない、ということがあるのです。

たとえば、謙虚な性格で「謙遜は美徳」と信じて育ってきた人間が「自分の小説、メチャクチャ面白いんで、ぜひ読んでください!」と大っぴらにアピールできるでしょうか?

他人に遠慮して「あまりグイグイ押していくと、迷惑になるかも知れないな…」と考えてしまう人間が「読んで!読んで!ブクマして!」と猛プッシュできるでしょうか?

人の好みは十人十色であることを知っていて「この小説、上手く書けたけど、他の人の『好み』に合うかは分からないな…」と冷静に分析している人間が「誰が読んでも絶対に面白い小説です!」などとアピールできるものでしょうか?

謙遜、遠慮、他者への配慮…かつて日本人の美徳とされてきたものたちは、「積極的なアピール」という点だけで考えるなら、かえって「邪魔」なものでしかありません。

そして哀しいことに、現代社会は「目立たずコツコツ地道に頑張っている」人間よりも「派手に目立って一気にバズる」人間に注目しがちな、アピール至上主義社会になりつつある気がします。

(「地道な努力」への賛美はブラック労働問題に繋がりかねないので、そこを「賛美」するつもりは無いのですが…。それが全く無視され「無いもの」のように扱われるのも、何かが違うなと思うので。)

そもそも人は「イメージ」に簡単に騙される生き物です。

自信が無さげにオドオドしている人間より、自信満々に堂々としている人間の方が「能力が高そう」に見えてしまう…そんなことがあるのではないでしょうか?

しかし、「根拠の無い自信」というものがあるように、自信は「実力」ではなく「性格」によるところが大きいのです。

たとえ他者を圧倒する実力を持っていたとしても「こんな能力、全然大したことない」と自己評価の低い人間はいるものです。

本当に実力ある人間が欲しいなら、第一印象の曖昧なイメージなどアテにせず、テストなり実践なりで、しっかり能力を見極めるべきなのです。

(これ、実は就活の時や、実際社会に出てからも、うっすら疑問に思っていることなのですが…。まさか企業の採用担当者は、自己アピールや第一印象を鵜呑みにして人を採ったりしていませんよね?…と。)

小説も同じことです。おもしろそうな「イメージ第一印象)」の小説が、実際に「おもしろい」とは限りません。

それは読者が頭の中で勝手に描いた「イメージ」でしかなく、「真実」ではないからです。

その小説がおもしろいかどうかは、結局のところ、読んでみなければ分かりません。

ぱっと見の「イメージ」に振り回されず、自分の目で見極めなければ、分からないものなのです。

「性格」には「生まれつきの性質」の他、その人の育ってきた環境、人生経験も大きく影響してきます。

親が子に対して肯定的だったか・否定的だったか、人生で挫折を味わったか否か、他人に気を遣わざるを得ない環境だったかetc…。

それはほとんど当人が選んだものではなく、運命とでも呼ぶべきもの――いわば「ガチャ」で決まってしまったものです。

それが、これまでの人生のみならず、これからの人生――「作品が日の目を見るかどうか」にまで影響してしまうのだとしたら…こんなに報われないことはないと思いませんか?

今の時代は「報われない時代」「生きづらい時代」だと言われています。

でも、その「報われなさ」「生きづらさ」を生んでいるのは、結局、その時代を生きる人間自身なのではないかと思います。

人が「人」をちゃんと見ないから――「イメージ」や「うわべ」に振り回されて、その奥にある「真実」に目を向けないから、「報われなさ」や「生きづらさ」が生まれる…結局は、そういうことなのではないかと…。

逆に言えば、人が「人」をイメージやうわべでなく「ちゃんと」見てくれるようになれば(そういう意識変革ができれば)、現代社会の「報われなさ」「生きづらさ」なんて簡単に変えられる気もするんですけどね…。



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