認識と狂気

 人間は通常、迷妄の中にいる。常識や偏見にまみれている状態が、人間という生き物の正常な状態なのだ。

 人は通常、自分というものを正気だと思っているし、その認識は極めてまっとうだと思っている。
 そして、自分とは異なる認識を持っている人間を「あいつは自分を正常だと思い込んでいる」と指さしている。互いに、指さしあっているが、私には、その両方が「動物として正常」であるように見える。

 犬同士が、互いを危険だと判断して吠え合っているのとよく似ている。人間は自分を正しいと思うあまり、自分と意見が異なる他者を、狂っているとみなしたがる。


 だが、そのような認識状態が崩れる瞬間がひとつある。それは、自分が「異なる意見を持っている」と認識した相手が、自分に対して「あなたと私は、同じことを言っているんですよ」とか「あなたのおっしゃる通りです。そして私が思うに、そこから推論して……」などと言い始めた時、人は混乱する。
 「おかしいのは私の方では?」という疑念が生じてくるのだ。

 たいていの場合は、逃げ出す。本能的に危険を察知するのだ。


 この現象が示していることは何か。人間にとって「真実」や「誠実な認識」というものは、一種の病気の原因となるものなのである。
 人間というのは極端なまでに主観的であり、主観的である限りにおいて、健康でいられる。主観と主観がぶつかった時、それによって争いが引き起こされるからこそ、自己の硬さを確かめられる。
 それなのに、相手の主観がこちらの主観に入り込み、それがまた別の新しい何かを生み出そうとしているのを感知すると、人は恐ろしいと感じる。

「何が正しいのか分からなくなる」
 と素朴な彼はこう語る。
「だからもうやめてくれ。私の『常識』を壊さないでくれ」


 人間は通常、自分の生きやすい内的な世界観を確立させ、その中で生きている。それを覆すような事実や、あるいは言論は、無意識的に避けるようになっている。

 では、そのようなものに、むしろ向かっていくという気質とは何であろうか。自分にとって都合の悪いもの、見慣れないもの、そういうものを欲し続け、表現し続ける、認識の怪物とはいったいどんな人間であろうか。

 近年、そのような化け物が各地で生まれつつある。彼らは、どのような非人間的な認識にも、IFにも、躊躇なく踏み込み、その中で泥遊びをし始める。そして自らの肉体や精神すらおもちゃにして、認識して、嘲笑う。

「見ろ人間ども! お前たちの中から、こういう生き物が生まれてきたぞ! 見ろ! 私を見ろ!」

 認識の化け物は、見ることと見られることの欲求が狂気じみているほど強い。いっけんこれは、人間に備わった社会的欲求、承認されることへの欲求に近いものにも見えるが、長い間じっと観察してみると、それとはまた別個のものであることが分かる。
 たとえば承認されることの欲求というのはつまり、他者から理解可能なものとして扱われることへの欲求でもある。他者から評価されること、他者から褒められること、他者から愛されること、そういうことへの欲求なのだ。
 だがこの化け物の、他からの認識されることへの欲求は、それとは異なる。それは「恐怖されること」や「避けられること」「驚かれること」「理解されないこと」への欲求も含まれている。

 認識の化け物とは、通常の承認欲求とは逆の働きを持っている。それは、群がる人間から離れ、離れ、離れ、そして、認識の化け物同士で集い、より高度な認識、より高度な世界観、さらには、より高度な社会を作り出そうとする欲求を有している。

 この化け物は、あまりにも強い認識の欲求と、それを害する者たちへのあまりにも強い敵意を抱いている。

 盲目への敵意。目の悪さへの敵意。自分たちを、他の人間たちと区別できない者たちへの敵意。そういうものを有している。

 彼らは個性的だ。それぞれに、別の特徴と、別の生活がある。ただ共通している点は「誠実であろう」と欲している点だ。そして彼らは「認識できないもの」「常識の中で生きるもの」「古臭いものに縋りついているもの」たちを、心の底から軽蔑し、いずれ彼らの世界をひっくり返してやろうと考えている。


 私たち認識の怪物には、あまりにも多くの欲望が宿っている。あまりにも多くの、人間的な部分が混ざっている。

 その多くはまだ、自分が彼らと同質の存在でないことを自覚できていない。まだ自分のことを「人間」だと思っているのだ。そして、自分以外の人間が、人間らしくないのだと考えている。

 だが実際にはどうだ? 人間らしくないのは、君の方じゃないか。人間は元々、そんな明るい認識など持っていないし、認識なんかよりも、食べ物とか、異性とか、金とか、そういったものに惹かれるものじゃないか。それを語る必要もないほどに、彼らはそういったものを愛し、そのために認識を利用するじゃないか。
 ところで君はどうだ? 君の認識は、そういった「健康な人間の認識」とは、もう異なるのではないか? 私たちの認識は、どこまでも科学的になる。同時に科学的に非科学的な領域を見た時、私たちはそれで認識するのをやめるのだろうか? 否。否なのだ。非科学的な領域でさえ、私たちは認識しようと欲する。科学的に? いや、知的誠実さに基づいて! 科学から盗んできた知的誠実さを利用して! 科学だって、知的誠実さについては、神学や数学から盗んできたものなのだから!

 非科学的な領域とはすなわち人間的な領域である。人間のあらゆる迷妄、主観性、利己主義、無意識的本能、そういったものは全て科学に反するものであり、科学を拒絶するものだ。
 科学が人間にまつわるある法則を見つけ出そうとするたびに、人間は意地悪に笑って。
「では、その法則に反する事実を、自ら作り出せるとしたら? 自ら、もう作り出してしまっていたとしたら?
 科学が私たちの領域を支配するには、私たちの本能を支配し、制御下におかなくてはならないが、私たちはそれを断固拒絶し、あなた方が正しいと思おうとするあらゆる法則や事実に反することを、現実化させてしまおう!」
 
 認識の怪物は、科学を愛している。同時に、科学を嘲笑っている。どれだけ時代が進んでも、科学が人間を支配することはなく、逆に、人間が科学を道具として、召使いとして、自分の好きなように用い続ける。
 時にその「客観性」すら捻じ曲げて、「方法論」すら捻じ曲げて、「科学でないものを科学と呼んだり」して、私たちは私たち自身のために生きることだろう。
 「科学的な生き方」など存在せず、そう呼ばれているものはたいてい「科学的手法を利用した、原始的な生き方」なのだ。不誠実で利己的で単純で即物的な、もっとも低級な生き方なのだ。

 そして、そういうことを見て取って喜ぶのが、我々認識の怪物。私たちは科学的などではないし、いわんや宗教的でもない。
 私たちが科学者になるとき、私たちは科学的な手法を用いて、非科学的なことを引き起こそうと試みるし、それは実際にうまく行く。うまく行くしかない。
 月の上に立ちたいという欲望のどこに、科学性があるというのだろうか! 科学とは手法であって、正しさそのものではないのだ。正しさは常に、人間が恣意的に定めるものだ。

 私たちは科学を学ぶとき、科学を信仰するのではなく、科学からどんな利益を引き出せるか考えながらそれを学んだ方がいい。
 科学を進めるのは、私たちではなく、高級な人間たちだ。認識することよりも、学問を進歩させたことによる名誉にあずかりたい人達だ。
 私たちは彼らの成果を最大限褒めながら、正当な権利を持って搾取している。科学的学問の成果は全て「みんなのもの」なのだから。

 科学を利用するのは難しいが、科学者を利用するのは簡単なのだ。

 こういう誰もが知っている事実を語ることすらできないのが、善良で認識のできない人々だ。科学者も含め、と言ってもいいかもしれない。
 対して、私たちはもう、躊躇しない。


 認識する動物としての、新しい人間。私たちはもはや、かつて人間が「こうあるのが正しいから、こうあるべきだ」と考えていたのとは異なる。
「今はこうなっているが、次はこうかもしれない。実は今も、こうでないかもしれない。もはやすべてが正しいのであり、全てが誤っている。ならば私たちは、認識し、支配し、利用し、愛するのだ。何を? 全てを、だ」

 私たちは皆スピノザの血を引いているが、彼と違うのは、認識したものに欲情していることを正直に認め、それを利用し尽くす覚悟が私たちにはあるという点でだ。
 
 可変的な器。数千年の歴史を飲み干す者。自らの犯した過ちさえ、愛し、その必要性を認める者。


「人間をやめてはならない」
 というポスターは今でも時々見かける。でももはや私たちにとって、その「人間」というやつは、どうしようもなく恥ずかしものではないのか? 
「人間をやめられるなら、とっととやめてしまいたい」
 その言葉を言わずにいるのは、私たちの良識や理性的な判断ではなく、単なる臆病さと利己心からなのではないか?
 人間をやめたらそれ以降、人間たちから利益を引き出せなくなるから、まだ人間のレベルにとどまっていたいという、そういう気持ちなのではないか?

 実際「正常な人間」「健康な人間」というのは、精神的な意味においては非常に不潔であり、危険な生き物である。
 特に、科学や歴史を学んでしまった人間は!

 もし字を読めず、計算もできない人間であれば、その人間は不潔でも危険でもなかったことだろう。それは動物たち同様、清潔で自然な生き物であったことだろう。

 だが現代の「正常な人間」「健康な人間」は、私たちのご先祖様が作った「認識の毒」に害されて「常識」や「偏見」といったいつも半分だけ正しい歪んだ世界観で生きるようになってしまった。彼らは、もはやどっちかずの病人なのだ。

 だから、もし麻薬や犯罪を人間に禁止するなら、こう言った方が正しい。
「野生動物に戻らないで!」


 私たちは喜んで人間をやめ、さらに野生動物たちから遠ざかろうではないか。より社会的で、より誠実で、より善良な、そう、私たちにとって善良かつ高貴な、そういう生き物になろうではないか。

 認識の怪物。私たちは、私たちの認識を、複雑かつ奇妙で、心理的抵抗さえ感じるような認識を、さらに、さらに追い求め、それを活用し、私たち自身を支配しようではないか。

 より高級な幸福を、私たちのために用意しよう。認識できるということは、それだけ多くのものを利用できるということなのだ。


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