善悪を探す

「創作なんて意味のないことをやっている暇があったら働け。人助けをしろ。世の役に立つことをしろ」
「お前は常日頃遊んでばかりいるくせに、口だけは達者だ」
「口だけの人間の言葉など、誰も聞かない。お前はなぜ行動しない?」

「悪いことをしないこと、それが善である」

 こういう考え方は、心を穏やかに保つのには役立つが、前向きに生きるのに役立つことはない。
 いつも自分を助けてくれている人たちが、他の誰かに対して「悪」としか思えないような行為をしている時、私たちはどうすればいいのだろうか。自分が何かを勘違いしている可能性もある。彼らにはきっと彼らの事情がある。そもそも私が彼らを咎めたところで、それは単なる自己満足に過ぎない。そもそも善悪なんて、妄想なんだ。だから、彼らは悪くない。彼らを止めないという選択をした私も悪くない……でも本当に?

 善悪、道徳の問題は私たちが思っているよりも根が深い問題だ。これが単なる「人間の集団、つまり社会にとっての都合」であると認識したいのに、どうにもそれに反するような事実が見つかってきてしまう。
 「唯一絶対なる善悪など存在しない」と言ってみたところで、私たちはその善悪を探そうとしてしまう。あるべき善悪を見失っていると感じ、それに向かって進むことを肯定したくなる。それは弱さであると思うことができれば簡単なのに、そうとは言えない複雑さがそういう欲求の中には存在する。


「善悪について考えるなんて愚かなことだ」

 つい最近まで、私はそのように考えていた。その理由は、私が小中学生のころ善悪について深く悩み、それについての決着はついたものだと思い込んでいたからだ。
「善悪など単なる妄想と押し付けに過ぎない」
 そこまで単純に考えていたわけではないし……時には「人は、その、自分でもなんだかよく分からない『善なるもの』に導かれるようにして生きなくてはならない」と考えていたこともあるから……それほど過去の自分を貶めたいわけではないが、ともかく、私は善悪について考えるのをここ数年休んでいた。
 善悪ではなく、自分自身の人生について悩んでいた。でも善悪のことを飛ばして自分自身の人生を考えたって、うまく行くはずがない。善悪とはすなわち、私が向かうべき場所と避けるべき場所を規定するものなのだから、それがないのならば、自分の人生のあるべき姿だって、見つかるはずがない。ふわふわと宙に浮いたまま、風に揺られるばかりだ。


「どれだけ考えても、答えなんて出るはずがない」

 そう思い込むこともまた、ひとつの偏見であり、独断であろう。実際私はまだ若く、今まで考えてきたことなんて、これからの私の長い人生を考えたら、それほど多くはないのだ。私はこの先もっと多くのことを考えていくし、もっと広く深い範囲でものを考えられるようになっていく。だから、今の私が答えを出せないからといって、その問題に対して答えを出すことが不可能であると結論するのは、傲慢であり、怠慢でもある。
 それに私が答えを出せなくたって、他のもっと優秀な誰かがいつか答えを出すかもしれない。もしかしたら、私の無謀な努力が彼の成果にほんの少しでも影響するかもしれない。そういう可能性があるのなら、私はそうするしかないのだと思う。


「ずっと善悪について考えてきた」

 今、自分という人間が他の人間に対して決定的に何が異なっているか、ひとつ思い付くことがあった。それは、幼い頃から「善悪」というものに対して、深くて強い、執着を持っていたということだ。
 「正義感が強い」ということではなく、単に、この世界でもっともありふれた言葉である「よい」「わるい」ということが、いったいどういうことなのか、気になって仕方がなかった、ということだ。
 他人が口にする「こういうのがよい」「こういうのが悪い」が、口にする人間によって食い違っており、誰に従えばいいのかも分からなかったし、誰の言葉に耳を塞げばいいのかも分からなかった。それを教えてくれる人もいなかった。
 私の両親は、良くも悪くもそういう問題に対してはとても無邪気で、原始的な考え方のもと生きていた。「私たちは悪いことをしていないから善人である」くらいしか考えておらず、それ以上の善悪の問題について一切の興味を持っていなかったのだ。犯罪者や反社会的な勢力に対しては「怖い」という感情のみであり、偉人や、誰かのために犠牲になれる人間に対しては「すごい」という感情のみであった。
 私は自分がどういう人間になるべきなのか誰からも教えられず育ったし、それから目を背けて生きられるほど、ぼうっとすることが得意な人間ではなかった。
 言い換えれば、暇の多い子供だった。自分から友達を作るのは得意で、時間があれば誰かと会って遊ぼうとしていたけれど、それでもいつもいつでも遊んでくれる人がいてくれたわけではないので、ひとりきりになったときに、自分が生きているということがいったいどういうことなのか、深く考えることの多い子供だった。
 善い人間でありたいと思ったけれど、でも他の人が言う「善い人間」の定義に、自分が当てはまっていないことだけは実のところよく分かっていた。でも「悪い人間」にはなりたくなかったし、そういう人間にならないように気を付けて生きることは、自分にもできるような気がした。だから「悪い」とされることは避けて生きてきた。人に嫌われることよりも、悪い人間になることの方が怖かった。
 私はなぜか、幼い頃から、悪い人間のことを憎まなかった。悪いことをしている人を見ても「馬鹿だな。損をするのはその人自身なのに」としか思わなかった。
 悪とは、他人を害することであり、他人を害する人間の周りには、同じように他人を害する人間が集まってくる。他人を害することを避けている人間は、他人を害する人間と一緒に居ようとはしないから、彼は孤独になるか、悪人同士で傷つけ合うかのどちらかにしかならない、という道理を、私は小学校に入る前から理解していたし、だからこそ、悪人というものに強い恨みを抱いたことはなかった。
 ひどいことをされたときや言われたときは、我を忘れて怒ることはあった。でも怒りというのは時間が経てば収まるし、自分がくだらないことで怒ってしまったことを、すぐに恥じ入るタイプの人間だった。怒るほどのことではなかった、ということと、自分が自分自身のために怒る、ということが、どうにもあまり「善くない」ことであるかのように、幼い私には思えたのだ。

 私は自分のことを「善い人間」だと思ったことは全然なかったし、人からそう言われたことも全然なかった。でも「優しい」と言われることは、なぜかとても多かった。
 私は自分のことを「優しい」と思ったことはあまりなかったし、そもそもその「優しい」という観念の中には「軟弱さ」や「弱さ」というネガティブな観念も含まれるような気がして、私はその「優しい」という誉め言葉を、素直に受け取ることができない子供だった。というか、今でも素直に受け取ることができない。私は平気で他人を見捨てられる人間だし、自分が疲れている時は誰かに対して親切でいられないことも多いし、それを正当化することの多い人間でもある。
 もちろん、世間一般の人間はあまりに慈悲の心に欠けていることが多いので、彼らと比較すれば、確かに私は「優しい」のかもしれないが、でも私はそういう他者と自分との比較を、あまりいいものだとはどうしても思えないのだ。自分より低いものと比べられたって、それで私の存在が高まるわけではないから……


「人は傷つけ合う生き物」

 私はおしゃべりな人間で、おしゃべりな人間というのは、どうしても人を傷つけずにいられない人間である。どんな些細なことでも、人は傷つくし、たくさん喋れば喋るほど、色々なことを語れば語るほど、それをたまたま耳にした人間の敏感な部分にさわり、結果的に私のおしゃべりが誰かを傷つける、ということが引き起こされる。
 意識的に人を傷つけることは簡単だけれど、人を傷つけないようにしゃべるのは、どれだけ気を付けても、それが完全に果たされることはない。気を配ったうえで口にした発言が、なぜか誰かを傷つけてしまったときは、私は反省すらできない。きっとこの先同じ状況に立たされたとしても、私は同じことを言うしかないのだから、そういうことがあると、私はもう、本当は必要なこと以外何も言わない方がいいのではないか、と思うのだ。
 でも私が黙ったところで、他の人間は喋り、互いに勝手に傷つけ合う。誰かを守ろうとすると、また別の誰かを傷つけなくてはいけなくなる。私はもう「勝手にやってろよ」と思いながら、静かに落ち込むことが多かった。
 ふだんおしゃべりな人間が黙ると、他の人たちはみんなその人に気を遣う。私がなぜ黙るのか、私が何を考えているのか、人に余計な想像をさせて、疲れさせてしまう。だから当たり障りのないことを言って、気配を消していた時期がある。気配を消していたつもりなのに、それでも目立ってしまう自分という存在がいったい何なのか、分からないと思ったことも覚えている。
 そこに小さな優越感があったのも本当のことだ。目立とうと必死になって色々なことをやっている人間は男女ともに一定数いたが、私はそんなことを意識する必要もなく、放っておいても周りから注目を浴びていたし、それを楽しむことができていた。
 それはきっと、容姿だけではなく、内的な人間性や私自身の生き方、あるいは、私が人生を順調に歩みながらも、自分の存在を深く悩み続けている、ということが、人の心を惹きつけていたのだと、今の私は勝手に思っている。
 だから何だというわけではない。人からよく思われていたって、注目されていたって、ひとりぼっちはひとりぼっちだ。寂しいのに、気持ちを伝えたいのに、どれだけそれを伝えようとしても、相手はただ、にこにこしたまま首を傾げるだけ。いったい自分が何を望んでいるのか、どのように生きていたいのかも分からないまま、どれだけ多くの人に話を聞いても、他でもない自分自身が納得することができず、疑いの中でずっと暮らしていた。苦しかったし、寂しかった。生きることはとても困難だと思った。

「そんな難しく考えなくてもいいのに。みんな、もっと気楽に生きてるよ」
 私の書いたものを読んでくれている人は、そういう風に思うことの少ない人が多いと思う。そういう気楽にぼーっとしたまま生きている人たちは、もっと気楽な文章を読むだろうし、そもそも私の気持ちは一切分からないだろうと思う。
 私は自分が自分の人生を難しくしていることに気付いている。でも気付いたからといって、それを治す理由にはならない。だって、私には「損得」がないし「善悪」もないのだから、今の自分を変える指標が一切存在しないのだ。「こうしなくちゃ」とか「こうしたい」とか、そういう、あるべき自分像がないのだから、たとえば他の人みたいに「やるべきことをやらないといけないから、こんな風に考えている暇なんてない。ただ疲れるだけだ」というように、切り替えるだけの、理由も気力もないのだ。
 「こうやって考えても苦しいばかりで、何の進展もない」という風に諦める人も多いと思うけれど、私はそのような考えが浮かんできても「私が苦しむことで、世界にとって何の損があるだろうか。いや、もっと身近な言い方をすれば、私が苦しむことが、私にとって何の損があるだろうか? 私のこの苦しみが、私の何を損ねるのだろうか?」という疑問が生じるのだ。

「ある人は言った。意味のない苦悩などないのだと」
「また別の人は言った。じっとしたまま悩みこんでいたって意味のあることは起きないと」

 道に迷ったから、色々な人に道の話を聞いた。あっちに行け、こっちに行け、と色々なことを言われた。みんなが同じ方向を示してくれたら、私は楽だった。でもみんなバラバラの方向を示していて、私は簡単に選ぶことができなかった。
 仕方なく、大多数が指さした方向を進むことにしてみたけど、その先で見た景色は、地獄だった。奴隷のような生活だった。だから私は慌てて別の道に進もうとしたけど、そこにはもう道がなかった。
 一番賢い人たちに話を聞いたが、彼らは「君次第だ」の一点張りだった。他のことは何も教えてくれなかった。
 彼らは彼ら自身の生き方を語ったが、それは彼らのためだけのものであり、私のためのものではなかった。私は彼らの背を追いたかったが、彼らもまた、ひとりひとり全く違う方向に向かって進んでいた。
 ある人の背を追うためには、また別のある人に背を向けなくてはならない。私はそれを正当化するだけの理由を持っていなかった。
 私が私の進んでいる道を肯定するには、私自身が、誰の背も追わず、誰の指示にも従わず、私自身が望み、導かれ、進んだ道でなくてはならないのだと気づいた。

「私はそこで、自分には善悪が欠けていることに気づいたのだ」

 私はどうやら欲が少ない人間であるようだ。小さくて多様な欲求はあるが、すぐに満たされるので、執着することはないし、どうにも満たされない場合においても、その欲求の対象自体を自ら望んで小さく見積もることができるので、それで苦しむこともなかった。
 欲望に囚われている人間を美しいとは思えなかったのだ。欲望に囚われている人間は、それを満たすために、愚かなことや醜いこと、他者を傷つけることを平気ですることがあり、私はそういう風に生きることは欲しなかった。
 私のような人間が力強く生きるためには、善悪が必要なのだと実はずっと、気づいていたような気がする。私は善悪がなければ、ろくに動けない人間なのだ。私は誰よりも、自分自身を正当化する必要に迫られているのだ。

「ふつう人は、自分の欲望を満たすために生きている。言い換えれば、幸福のために生きている」

 私はいつも欲望が満たされていて、幸福なまま生きていると言える。だからこそ、私は生きる意味を見失い、何の行動もできず、うずくまっている。
 私は私の人生を正当化する方法や、正当化するにふさわしい像を求めている。私は私の人生を正当化する必要に迫られているし、それがうまくできていないという現実が、今の私を何よりも深く悩みこませる。
 現状、私には求めるべきものが何もなく、何をやっても、それが無駄であるのではないかという疑問が付きまとう。
 私は「考えない」ということができない人間であり、それはもうすでに決めたことだ。私の数少ない善悪の中のひとつに、おそらくそれは含まれているのだと思う。

「考えることは善いことであり、考えないことは悪いことである」

 私はきっと、無意識的にそう考えている。そういう善悪を持って生きている。

「悩むことは善いことであり、悩みを避けて生きることは悪いことである」

 きっと人が私を避けるようになった最大の理由は、私が無意識的に信じているこの善悪が、あまりに息苦しいからだと思う。
 人はふつう悩むことを嫌う生き物だし、悩みを生じさせる要因となるものを避ける生き物でもある。
 あるいは……もっと単純に「あまり深く悩んでいない自分が、彼女という不思議な人物から好かれることはありえないから、あまり近づかないのが得策だろう」と、気を遣った結果なのかもしれない。
 いずれにしろ私の生き方は、善悪は、大多数の人々が追従したくなるようなものではないし、当然、この現実社会において力を持つことも、ありえないと思われる。

「浅川理知という存在がいったい何なのか、私はずっと分からなかった」

 彼女がいつから私の精神に生じたのかは覚えていない。いつの間にかいたし、存在を認識してからずっと、私の心を掴んで離さなかった。
 私は彼女を心のどこかで軽蔑しているのに、それと同時に、強く憧れている。
 彼女は彼女の善悪をはっきりとした形で持っている。彼女はいつも「私は、浅川理知、つまり自分にとっての自分という観念に反しない生き方」を意識して生きている。
 彼女は、自分がどういう存在でなくてはならないか知っているし、その通りに生きている。変わらない自分自身、というものを持っている。私はそれが羨ましくて仕方がない。彼女のように生きられたらどれだけいいか、と私は泣きながら何度も嘆いた。私は彼女に嫉妬している。
 自分の心の中にしかいない存在なのに、なぜか私は、彼女という存在を深く知っている。
 自分とは違う存在として、自分にはできない生き方として、彼女という生き方を、私は知っている。彼女という善悪を、私は知っている。

「きっと人間の数だけ善悪が存在する」

 彼女の善悪は彼女だけのものだ。彼女は、この穢れた世で、彼女自身の生き方のみに集中し、他のことは些細なこととして一蹴する。彼女が怒るべき場面に遭遇すれば、彼女は必ず怒るし、彼女が誰かを助けるべき場面に遭遇すれば、彼女は必ずその人を助ける。そういう人間なのだ。必然的な人間なのだ。あらゆる偶然を、自分自身という存在を世界に示すために、利用することのできる人間なのだ。そしてそれ自体に満足し、それ以外のことを一切欲しない人間なのだ。
 私は、心のどこかでずっと、そういう生き方を欲してきた。でも私の精神も肉体も不安定で、私は自分が定めた生き方に、自分自身を従えさせることなど、できる気がしなかったし、実際に試そうとして失敗したことが何度もある。
 私は私にとって理想的な自分でありたかった。そのための努力を厭わない人間でありたかった。でもそういう人間ではなかったし、そういう人間にはなれなかった。
 浅川理知は、それに近い人間だった。彼女は、彼女がそうでありたい自分像に、極限まで近づくことのできた人間だった。
 それなのに、それなのに、なぜか彼女は……私という存在を、彼女と対等か、それ以上の存在としてみなしていた。私にはそれが一番分からなかった。
 彼女にとってもっとも「善いこと」は、自分の定めた美しい人間の生き方を貫き通すことであり、それ以外のことには興味がないはずであったのに、そのような生き方を望んで敗れた、本来であれば軽蔑されるべき私という存在は、彼女にとって、なぜか、深く強く、愛すべき存在であるようなのだ。
 彼女にとって私のような人間は、なぜか、他のタイプの人間よりも優先して尊重し、愛し、守るべき存在であるようなのだ。
 彼女は私に可能性を見ている。その可能性がいったい何なのかは分からないけれど、私がかつて望んだ人生、浅川理知は、いつも、私に形のない期待を抱いている。私が捨てた理想像である理知という生き方は、今、私という人間の背中を支え、私がまた別の善悪を見つけ出すことを望んでいる。
 彼女には彼女の善悪があり、私には私の善悪がある。きっと私たちの間には、重なる部分がある。でも根本的な部分は異なっている。異なっているべきなのだ。

 私はいつも、自分自身だけの善悪を求めている。私自身が求めるべき善、望むべき善を、私は探している。

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