私が嫌いなものを大多数が好んでいること

 先に断っておくが、私は自分の好きなもののことを他の人が好きであって嫌だと思うタイプの人間ではないし、俗に言う「にわか」みたいな人が得意気になっていても、微笑ましいことだと思うタイプの人間だ。

 世の中には一定数「皆が好きなものを一所になって好きにはなりたくない」という人がいるが、私はそういうタイプではない。人から勧められたものはポジティブな気持ちで受け取るようにしているし、それを自分がいいと思ったら、他の人がどう思っていようが、それをいいものだと認識する。(もちろん、その場その場の空気によっては黙っていた方がいい場合もあって、その時は「私は好きだけどなぁ」と内心で思いながら「ソウダネー」と言うことはままある)

 そういう人間でありながら、私には昔からずっと消えない不快感がいくつかある。そのもっともたるものは、私の大嫌いなものを、大多数が愛好している、という事実だ。
 繰り返しになるが、大多数が愛好しているから、それのことを嫌いになっているわけではない。大多数が愛好しているもののうち、私も好きだと思えるものは少なくないし、それについては悪く思わない。ただひたすらに、私が直感的に大嫌いだ! 受け入れられない! と思ったものを、他の人たちがみんな「イイヨネー」「私もスキー」「嫌いな人いないデショー」と言っているのを見ると、私は吐き気に襲われる。

 そのもっともたるものは「他人の失敗」である。それも、自虐的に自分の失敗を語っている姿ではなく、別の人間が、他人の失敗を観察し、嘲笑うという構図が作られているような状況、私はそれが、自分の中に一切の存在を許せないほどに、嫌いだ。
 言い換えれば、他人に恥をかかせようとする行為、それを見て笑う行為、私はそれが本当に嫌いで、自分が好きだと思っていた作品の中にそういう要素がちょっと含まれるだけで、落ち着くためのコップ一杯の白湯を必要とするくらいだ。

 漫才は好きだったが、バラエティ番組は苦手だった。
 テレビニュースも嫌いだった。犯罪者や不正を犯した有名人を執拗に追い回すのが、気持ち悪かった。
 悪い人間がいること、それは仕方のないことだと思っていた。彼らのことは、どうでもいい。でも、その悪い人間に無用な興味を持つ人間がいることが許せないほど気持ち悪かったし、そういう気持ちの悪い興味のことを気持ち悪いと思わない人間のことも、気持ち悪かった。

 必然的に、私はこの世の気持ち悪さに辟易するしかなかったのだ。悪趣味だ。悪趣味だ。悪趣味だ。


 私は成長するにつれ、寛容になるしかなかった。私の身の回りの人間は皆、私ほどそういう部分に敏感でなかったから、人を転ばせて嘲笑うことに抵抗がなかったみたいだから……許すしかなかった。
 ブラックジョークを好むようになった。大多数を嘲笑っても、大多数は傷つかない。実のところ、触れてはいけないと言われているものの方が、人を傷つけずに済む。あるいは、もうすでにそこにあるものを「おかしい」と思う分には、何も問題がない。それを傷つけているわけではないから。ブラックジョークと呼ばれる類のものは、口ではひどく言うだけで、実際に目の前にいる人を貶したり、失敗させたり、恥をかかせているわけではないから……
 触れてもいい、好きにしていい、と思っている範囲で、人は人を無邪気に傷つけ、それに何とも思わず、大喜びする。自分より頭の悪い人。自分より立場の弱い人。いや、違う。自分とは関係のない人で、自分にとって気に入らない人。そういう人を、大多数は探し出してひどい目に合わせて喜ばせようとする。ひどい目に遭っているのを見て大喜びする。そういうのが気持ち悪くて仕方ないのだ。そういう品性のなさが大多数に、この時代に、受け入れられているという事実が、この先も受け入れられ続けるしかないという事実が、私にはどうにも不快すぎて我慢ならない。

 私が本能的に抹殺したいと考えるような人間が、この時代の過半数以上を占めているという現実が、私に吐き気を催させる。
 一切の趣味を持たず、くだらない快楽に溺れ、それがどれだけ人を不快にさせているか想像することのない人間。
 私はどうにも、この俗世というものを好きにはなれない。人間の「普通」というものが、好きにはなれない。

 どうして人は自分がされて嫌なことを、別の人がされているのを見て喜ぶことができてしまうのだろう。私には本当にこれが分からない。心の底から分からない。

 因果応報という言葉でもまだ足りない。だってそうだろう? だって、直接的に自分が誰かを傷つけていなくても、誰かが傷ついている姿を見て喜ぶという行動をしているなら、そういう人間のために因果応報を信じない人間が、自分の利益のために、誰かを傷つけるということをやり始める。もうすでに、そういうシステムが出来上がってる! 気持ち悪いじゃないか。そんなの。自分が傷ついている時に、それを見て喜んでいるやつがどこかにいる、という事実は、あまりにも気持ちが悪い。「もっと、もっと不幸になれ!」と思っているやつがいるという事実は、あまりにも気持ちが悪い。誰にとっても気持ちが悪いはずだ。それなのになぜ、人は誰かの不幸を見て喜ぶのだろう。誰かの恥を見て安心するのだろう。本当に、心の底から気持ちが悪いと思う。こういう気持ちの悪さが、この世から一掃されないのなら、人類は滅びた方がいい、と本気で思ってしまうくらいに、私はこの人間の性質を心の底から憎んでいる。昔から、ずっと、絶えず、憎んでいる。

 憎んでいながら、見逃すしかない自分自身にも嫌気がさす。そういうことをする人間と友達でいるしかない自分にも、嫌気がさす。
 そういう人間と……家族であるという事実にも。


 この世から、他者の不幸を喜ぶ人間が一掃されればいい。いや、違う。私は、人間から、他者の不幸を喜ぶ心が一掃されて欲しいだけなのだ。

 人の幸福に嫉妬するのはいい。それを悔しく思い、素直に喜べないのは仕方のないことだと思う。でも、誰かが不幸になったり、うまくいかなかったり、恥をかいたりすることで喜ぶのは、絶対におかしい。そういうのはどうにも、どれだけ理性的に自分を納得させようとしても、無理なものは無理だ。そういうことだけは、肯定することができない。存在自体を許すことができない。

 私は基本的に、どんな趣味も存在までは否定しない人間だ。同性愛とか、障害とか、イデオロギーとか、そういうのを肯定することには抵抗がない。テロリズムなどの、自分にとって危険な思想に対してさえ、私は一定の理解を示すことができる。ある程度、そういう考えを己の考えの中の一部として許すことができる。
 でも大多数が感じているあの快楽、誰かに恥をかかせようとすること、誰かに失敗させようとすること、これだけは、私は自分自身に対してなぜか絶対に許せないし、他者に対しても、そういうことに抵抗のない人間に対しては、反射的に、強烈な嫌悪を感じる。殺意に近い感情を抱くことさえある。

 これに関しては、まだ自分の中で解決できていない問題であると思う。

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