現状に不満を持つと

 現状に不満を持つと、過去や別の地域のことを引き合いに出されることが多い。
 それはどこか正当なことを言っているような気がするが、冷静に考えてみるとどこか変だ。

 たとえば「もっとお金が欲しい。いい家に住みたいし、いい家具を持ちたい。高い料理を食べるのに抵抗なんて感じたくない」と不満を言っている人に対して「お前より貧乏な人間を見ろ。あれよりはマシだろ? だったらお前は我慢すべきだ」と答えるのは、うん、普通におかしいと思う。

 私は日本の教育制度に強い反感を抱いている。それについて実際に誰かから責められたことはないが、私の中の意地悪な性格は私にこう反論する。
「これでも昔よりずいぶんマシになった。他国と比べてみても、日本の教育はしっかりしてる。その成果も出てる。お前の不満は、お前自身の性格や肉体の構造に今の制度がたまたまうまくハマらなかっただけだ。その証拠に、お前が尊敬するこの日本社会の優秀な人たちは、この日本の教育制度の中で賢くなっていったし、それをお前のように全否定したりはしない。激しい受験戦争や学歴社会を否定する人間はいても、義務教育の制度の根本を見直そうとする人間はほとんどいない。子供たちも、あまり不満を持っていないように見える。強い不満を持った人間は不登校になるが、不登校になっても社会全体で救済措置を取ることは可能なのだから、それほど大きな問題ではない。つまるところ、お前はただ駄々をこねているだけなのだ」と。

 一理ある、というのは認めないといけない。でも、だからといって……

 とても気分が悪い。とてもとても気分が悪い。私の個人的経験が、現代の学校教育を否定したがっている。なくせと言ってるわけじゃない。でも根本的にどこか狂っていると思わずにはいられないのだ。

 戦前の日本の教育は、私たちの目には狂って見える。だが、あれも確かに成果を出していた。日本は当時諸外国と比べて著しい成長を遂げていたし、優秀な人材も多数育っていた。あの教育制度で。
 あの、逆らう人間は体罰によって痛めつけ、弱い人間は見捨てられ、言論が厳しく統制されていたあの教育でも、それまでの寺小屋などよりは、確かに国益という点でも文化という点でも経済という点でも技術という点でも優れていた。あぁそれは事実だ。事実だったが、その後戦争に負けて、別の方向にシフトしていった。その結果として、今がある。

 それは悪いものではない。認めよう。日本の教育制度は、間違いなくよくできている。だが、だからといって、それが一番いいと考えるのはおかしな話だ。

 ただ……もっといい仕組みがあるとしても、それを具体的に示さなくては、あの反論の言う通り、ただ駄々をこねているだけだ。文句を言っているだけだ。

 私にはできない。それは向いていないし、私の仕事じゃない。

 そもそもそういう風に、自分の身の回りを少しでもマシにしていくような仕事は……ある意味では、自分という存在の否定につながってしまう。
 それもそうだろう。だって私は、そういう気分の悪い環境で育ったからこそ、こういう人間になったのだから……

 しかし先人たちは、その自己否定を乗り越えてこの時代を作り出した。現状への不快が、軽蔑が、この高い時代を作り出してきたのだから、現状に甘んじ、自分と同じ苦しみを抱えた人間をこの先も作り続けるシステムは、改善すべきシステムなのではないか?

 プラグマティズム。

 今具体的にやりやすい仕事はセーフティーネットの設置。そしてこれは、ほっておいても誰かがやる。
 レールから零れ落ちた人間が何とか社会に復帰できるような仕組み自体は、もうできつつあるし、それについて私がすべきことは何もないと思う。それ関連のボランティアを見に行ったことが一度ある。悪くない雰囲気だったが、私には合わなかった。

 そもそも現代の教育制度は近い将来ぐだぐだになるし、その時点で何らかの改革を「迫られる」から、そのときに備えて自分の意見を少しでも実際に反映されられるような地位についておく、というのが分かりやすくて具体的な実践ではあると思う。

 やっぱり向いてないわ、そういうの。私の頭はいいかもしれないが、そのいい頭を使って体を動かすことはできない。やりたくないことを我慢することができない。そもそも人と関わることが不快すぎる。その不快を我慢できるほど、私は大人じゃないし、大人になんてなれやしない。人間は気持ち悪い。いつも私をうんざりさせる……

 協調性がないこと。協力することができないこと。そしてそれを、克服することができなかったということ。
 一度は我慢という形で克服することができたかもしれない。でもこの、居心地のいい孤独を知ってしまって、そこに慣れてしまえば、もう二度と我慢して彼らの中で呼吸することはできない。できなくなってしまった。体が拒絶する。
 このように、我慢せずとも日々を楽しく過ごせることを体全体で理解してしまった今、何かを我慢し続けることなんてできるはずがない。少なくとも私には、そこまでの意思の強さはない。

 私にとって毎日知らない人間に囲まれて過ごすのは、毎日砂漠の上で一日の大半を過ごさなくてはならないのと同じくらい苦痛だ。私には耐えられない。冷たい孤独で凍えている方が、私には向いている。その方が、容易に生を耐えることができる。

 行動によって自分の悩みや苦しみを簡単に解決しようとしてしまってはいけない。世の中には「余計なこと」というのが存在する。「退歩」というものがある。自分がそうなってしまわないように気を付けないといけない。
 それは私が行動をしないことの正当化ではあるが……しかし私は、何度か行動を起こしている。その結果はどれも散々だった。

 私はとても慎重になっている。ものごとは慎重に進めないといけない。私は臆病者だ。臆病者でいい。
 腹が立つ。


 どうせ私も誰かにとっては「現代の若者」でしかない。
 「政治的アパシーに陥っている若者にも、こういう風に真剣に悩んでいるやつがいるんだなぁ。日本の将来は明るい」なんて思ってる馬鹿もいるかもしれない。
 「あぁこういうのがサイレントマジョリティーってやつなのかなぁ」なんて思い込む馬鹿もいるかもしれない。

 悲しいけど私は、私に似た人間を、広いのか狭いのかよく分からないこのネット社会で一度も見つけたことがない。私と似たようなことを考え、似たようなことに悩み、似たように生きている人間を、私はまだ見たことがない。どれだけ探しても、だ。それが現実だ。
 共通点を持つ人はいる。頭のいい人はたくさんいる。悩みを持っている人もたくさんいる。でもそれだけだ。それだけなんだ。それぞれ異なっていて、それぞれ孤独だ。
 絆は解体されているし、解体されるべきだった。でも、本当に?

 私は大多数が嫌いだ。私のことを考えてくれない人が嫌いだ。私は子供なんだ。どこまでも子供なんだ。だけど私は知ってる。大人のほとんどは、私と同じかそれ以上に子供であり、しかも自分が子供であることに無自覚だ。

 もういいじゃないか。どうせ私は社会不適合者だ。

 どうして私は自分が不快になる方にわざわざ思考を進めるのだろう。それがどうしようもない現実だからだろうか。それが、私の誠実さが導き出した「正解」であるからだろうか。
 それとも私に悲観的傾向があるからだろうか。私の性格に何か問題があるからだろうか。私が何らかの精神的な病を患っているからだろうか。

 どれであっても構わない。結局は私は私らしくものを考え、選択していくしかない。
 選ばなかった方に対しては「私には関係ないことだ」と言いつつも、そこに繋がりを見出しては絶望し続けることだろう。

 私はそういう生き方しかできない。そういう生き方を選んだのだ。


(心配しなくていい。私は自覚的だ。自分を誘惑するものには最大限注意を払っている。そのせいで動けなくなっているのはあるけれど……)

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