自分がとても残酷な人間であることに気がついた

 頭の中の凡人が、私にこう言った。
「あなたは時々すごく残酷にものを考える。『もしその時に首が落ちたら』とか『私はその人を殺せるだろうか』とか、恐ろしいことを簡単に言い始める。まるでそれが当たり前のことであるかのように語るから、私は驚いてしまう。しかもあなたは、無邪気にも人をそういう気持ちにさせていることに気が付いていないように見える」
 彼女の言葉に、私は驚いた。

 ものを考える時、私は確かに容赦がないと思う。どんな物事もタブーとしないことを是としているから、残酷とされる考え方ややり方を、全く否定したり避けようとしたりするつもりがない。
 しかもそれが当たり前のことだと思っていたのだ。それを当たり前だと主張するどころか、頭の中に思い浮かぶこともないくらいに、当然のものとして考えていた。
 それを楽しんでいた。自分の残酷さを、残酷さとして認識せずに楽しんでいた。

 生き物を解剖して、その生き物の体の構造を確かめるかのように、私は人間の心を切り刻んだり継ぎ直したりして、遊んでいたのだ。
 時々はその光景のおぞましさゆえに恐怖や嫌悪感を感じるのに、そもそも自分が何で恐怖や嫌悪感を感じるのかを不思議がって、それが残酷であることに、一切気が付いていなかったのだ。
 これを奇妙といわずして何といおう。人間は自分の残酷さに滅多に気づかない生き物なのかもしれない!

 そしてこの予想外の発見に、私の脳は喜んでいる。(この「脳」という表現も、残酷と言えるのではないか!?)
 自分の残酷さに気づいて、笑っている。そうか、そうなのか。私はこれを、良心の呵責を全く感じず行うことができる。
 つまりそれが……私という人間の個性なのだ!


 喜ばしき発見だなぁ。私、実は結構サイコパス的なのかもしれない。
 というか、私は脳の中にスはイッチがあって、何かが切り替わっているのかもしれない。
 共感性が欠如しているモードと、共感性が異常に高いモード。あるいは、物理的に脳の機能がどこかしらで分離しているのかも。

 うまく使えないかな。今すごくいい気分。周りの人間の気持ちなんて全部どうでもよくなっているし、思考も心も冷たくて、心地よい。
 しょっちゅうオーバーヒートする不良品の心臓が、氷枕の上で寝そべっている感じ。文章の感じもなんかいつもと違うな。

 そもそもいつもってなんだ? 私はそもそもしょっちゅう文体が変わるし、しかもそれを意識して変えてるわけじゃない。
 自然に書いていたら、いつの間にか全然違う人間が書いたみたいな文章ができているだけだ。
 だからこの文章は、六月三日深夜の私の文章であって、他の日の私の文章じゃない。

 なるほど……私という人間は極めて面白い生き物だな。切り刻んで中身を見てみたいと思う気持ちは、理解できるよ。肉体をそうしたら死んでしまうからだめだけど、心を切り刻む分には何の問題もない。
 そのために精神を鍛えて、ちょっとやそっとのことじゃ発狂しないようにしたんじゃないのか?

 だから毎晩地獄のような夢を見て、忘れてしまえばいいのにわざわざ文章にして、あとで見返して「なつかしー」なんて笑うのだろう?

 それが私の正体なのだろう? アハハ! とても愉快だ。

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