その「客観的な見方」は「あなたが客観的だと思い込んでいる見方」ではないか?

 主観と客観について突き詰めて考えていくと、色々と変なものが見えてくる。

 私たち人間は成長過程において、はじめのうちは主観的である。自分が主観的であることすら気づかぬほどに、主観的である。

 成長していく中で私たちは「他者の主観」に触れる。そしてそれはたったひとつではなく、他者の数だけ異なる主観があるのだと、気づく。そして自分自身の主観が、無数にある主観のうちのひとつでしかないと理解する。

 そして、他者と何らかの意見の一致を求める際「異なる主観の総合」というのを考え始める。つまり、あなたの意見と私の意見の両方を含めた、新しい意見を産み出そう、と考える。
 二つの主観を内に含んだ、もう一つの観方を二人で共有しよう、と考える。

 三つの主観、四つの主観、と、人付き合いが広がるほどに、たくさんの主観を内に含んだ見解を、人は持つようになっていく。

 では、ここで問おう。「客観的」とは何か。今の話の中で、いつそれが生まれただろうか? いつから私たちは「客観的な見方はある」などと考えるようになったのだろうか?

 言葉の使い方は各個人で異なっていることが多い。特にこの「客観的」なる語は、それぞれが主観的に判断して、その語を使っていることが多い。存在自体が矛盾した語なのだ。
 私たちはその「客観的」という単語を、お互いにその意味を食い違ったまま用いることが多々ある。

 私は誰かが「客観的」と言うたびに「それはあなたが客観的だと思い込んでいる見方でしかないよね?」と思ってしまう。つまり人間は常に「主観的に」客観的だと判断しているのである。

 私のこの意見も、私という人間が私の手と頭を使っている書いている都合上、私がどれだけ「客観的にみえる」書き方をしたとしても、結局それは私の主観に基づいた見方なのである。


 と、するならば「客観的」という名札は「多くの他者が同意できそうなこと」というものだと考える方が自然だ。しかもその「他者」は地域や時代を限定したり、限定しなかったりする。
 A君の言う「客観的」が「二千二十年代の日本人の大半が同意しそうなこと」であり、B君の言う「客観的」が「何百年後も含んだ世界中にいる人間の大半が同意しそうなこと」である、というズレがよくあるのである。
 この範囲の限定もまた……「主観」に基づいている。そこに複数の人間がすでにいて、複数の人間が同意を与えることによって形成されたものである場合も、それはまた別の形になった「主観」であると考えられる。その他の人間からすると「そいつらが勝手に決めたこと」であるからだ。
(それを「間主観性」という言い方をすることもある)


 では、それらとは別に、二種類の「客観的」だと思われる見方について考えてみよう。実はこっちが本題。

「どの見方でもない見方」と「全ての主観を考慮した見方」

 一つ目の「どの見方でもない見方」というのは、言い換えれば、あらゆる主観を排除した見方、ということだ。しかし、私たちは私たちの主観に対する自覚は、完全にできるものではなく、何をやっていても必ず主観が混じる。この場合においても「どの見方でもない見方、つまり完全に主観を排除した見方を客観と呼ぼう」とすること自体も、その人自身の主観に基づいて定められた見方なのだ。客観的であろうとすること自体が、ひとつの主観に囚われるということなのだ。
 ただその認識を前提にして考えを進める分には、この見方は有効である。つまり「私は主観的に、こう定めた。『客観とは、私自身の主観を私にできる限界まで排除した見方のことである』と」という風に認識し、そのまま思考を進める分には、ひとつの特殊な見方として機能する。それを「客観的」と呼ぶことを、私は支持したい。(これは科学的客観性、と呼ばれることが多い)
 この見方はつまり「自分にしか分からないこと」や「自分の経験に基づいていること」「根拠が乏しいこと」「感情によって定められたこと」などをできるだけ排除して、必要な情報を必要な分だけ説明する、という書き方をするための、見方なのだ。
 これは、同じように主観をできるかぎり排除して考えている他者と同意を形成するのに非常に効率的で、その正しさを確かめやすく、しかも将来にわたって正しさが維持されやすいものでもあるため、有用である。
(めちゃくちゃ褒めたけど、私は個人的な趣味としては、あまり好きではない。役には立つけれど、楽しくはないからだ)

 二つ目の見方。「全ての主観を含んだ見方」について。
 これはいっけん、先ほどの「どの見方でもない見方」と真逆であるようにみえる。近いようにもみえる。
 私は、そのような感覚は全て正しいと思う。この見方において、あらゆる情報には等しく価値があり、別の名札が貼られていく。
 先ほどの見方では排除されるしかなかった「自分にしか分からないこと」「経験則」「独断と偏見」「感情論」なども、尊重される。それらも「ひとつの現実」「ひとつの存在」として認識され、それも含めた総合としての認識によって構成される。
 これは先ほどのような「科学的客観性」と、意外と相性が悪くない。というか、実はこの二つ目の見方が先にあって、後から「科学的客観性」が生まれてきた、というのが本当のところなのだ。
 これを「客観的」と呼ぶ人はあまり多くないが、かといってこれが「(個人にもともとあった)主観」の対極にあることも確かである。
 一つの目の「客観的」を「非主観的」と言うのならば、この見方は「総合主観的」である。(今私が作った造語)
 あらゆる人間の見るものや考えることの全てをひとつの現実として捉える、ということ。

 実は、一つ目の見方で限界まで突き詰めていくと、最終的にはこういう見方に行き着く。
 「どの見方でもない見方、つまり我々が『客観的』だと思っていたものは、この世界に存在する無数の現実のうちのひとつに過ぎない」と。

 二つ目の見方の方は、はじめの定義のうちから、そのような「客観的」なものに、何らかの名札をつけて、そこに「在る」ものとして認識する。
 互いに矛盾していないのである。

 ただ問題なのは、現代において、頭のいい人たちの間でも、ここで食い違うことが結構あることだ。
 Aさんが一つ目の見方を「客観的」と呼び、Bさんが二つ目の見方を「客観的」と呼んでいることが多々あり、その場合、なかなかに困ったことになる。

 少し昔の科学者たちは基本的に一つ目を「客観的」と定義していたし、逆に哲学者などはずっと昔から二つ目をそのように捉えていた。最近の科学者は、なんだか哲学者みたいな感じになっている人が多いので、二つ目の見方が強くなっているような気がするけれど、でも一つ目の見方(主観的でない見方)を「客観的」と呼ばないならば、その見方を何と呼べばいいのかも分からなくなる。言語が混乱するのである! うわぁぁ!


 ちなみに私は何かを見るとき、基本的には「より多くの見方をしよう」と考えている。つまり、先ほど紹介した二つ目の見方を意識することが多い。主観的に、そうしようと思っているのである。
 当然、その中に今まで説明した他の見方、つまり「客観的」という見方も含まれている。複数。



 追記。こういうのってどれくらいの割合の人が理解できるのかって、少し気になる。(理解というか……同意? 「私もそう思ってた」って思ってくれる人がどれくらいいるのかも気になる)
 私にとっては割と当たり前のことを言っているだけなんだけど(でも説明にすると難しくなっちゃうのよね)こういうのって伝わっているかどうか確かめるのが難しいから、さ。

 私は何か言う時も考えるときも、こういう風な認識をベースにしてるんだけど……なんで私と同じような認識をベースに語る人が少ないんだろうって不思議に思う。わざとやっているのかなって思ってたけど(私自身、わざとひとつの立場や見方に絞って語ることは結構あるし)どうやらそういう場合ばかりでもないみたい。

 時々、私って私が思っているよりも他の人と比較して頭が良くて、逆に、他の人は私が思っているよりも私と比較して頭が悪いんじゃないか、と疑う。
 なんだか怖い。すごく怖い。

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