思っていることと言っていることの乖離

 それ自体はよくあることだと思うけれど、今回は「謙遜」というものについて考えてみたい。

 現代日本では「俺は賢い」と主張する人間を基本的に蔑む傾向がある。
 だから「賢い」と思われていたい人間は皆そろって「自分なんてまだまだです」とニコニコしながら謙遜する。それがひとつの礼儀であり、賢さの前提条件となっている。
 本人が実際に「自分はそれほど賢くない」と思っているかどうかは、その本人の気質によるところが大きい。
(そう。自分を賢いと思うかどうかは、その人間の実際の能力よりも、その人間の性格、気質によるところの方が大きい。人間は自分自身に対しては「主観的な評価」と「客観的な評価」を分ける生き物であり、他人に思われることと自分が思っていることは違っていて当然のものとして考えている。自分の能力を他者と比較するかどうかというものも、当人の気質による問題であるから、やはり自分のことを賢いと思うかどうかは、その人間の能力よりも気質に左右されるのである)

 そんなわけで「他人からよく思われたい」という欲求が強い場合、頭がよくなればよくなるほど、他者と接するときの仮面が均質的になる。没キャラクター的になる。各個人が思っていることはそれぞれ違うのに、現実に表出されるその人の言動や態度はほとんど同じものになる。外面的な部分はすべて他者のために作り替えられたものとなり、非人間的な印象を与えるのである。

 私たちは自分たちがそういう時代に生きていることを自覚しなくてはならないし、相手の言葉や態度が単純すぎて「モブA」「通行人B」「友人C」みたいに見えることがあったとしても、やはり相手が個人である限り、その人間特有の気質を持っており、その人の頭の中にはその人自身の世界が広がっていることを、忘れてはならない。

 思っていることと言っていることがどんどん離れていく時代であるからこそ、私たちは「言葉にならないこと」「言葉にできないこと」に目を向けなくてはならない。「不確かなこと」「不安定なこと」「曖昧なこと」の価値を、認めなくてはならない。

 謙遜をする人は多い。だからといって、その謙遜がその人の本音であり、その人の性格や能力を示していると考えるのはやめよう。
 どれだけ傲慢な性格を持っていても、一定以上の賢さと欲望があれば、いくらでも謙虚さを演じることができるし、演じられた謙虚さは基本的に見破られない。

 私は傲慢な気質を持った人間で、もし私が能力的にこの国の平均より低かったとしても、私は無根拠に「私はすごい」と思い込んでいたことだろう。

 謙遜することを覚えたところで、私の気質、私の感覚、私のものの見方は変化しない。私は自分に対してどれだけ「謙虚になれ」「お前は大したことがない」と説得したところで、私の精神は、私の有利な事実や客観的な証拠を探し出して、私が他より優れていることを私自身に示そうとする。それが私の気質なのだ。

 そして私は実のところ、その気質が自分にとって不快でないことに気づいてしまったのだ。
 その気質は他者を不快にさせ、不快になった他者は、私に復讐をする。だから私はその復讐をおそれ、その気質を押し込んで、なかったことにしようとした。それはできなかった。だが、演じることはいくらでもできた。
 演じるコツを身に着けた後でさえ、私のその恐れは、私自身の傲慢さを咎め続けた。私は耐えかねて、自分の傲慢な感情を抑えつけず、表面的に謙遜することを試しにやってみた。
 どうしようもないほどに、他者からの反応は変わらなかったのだ。私が内面でどう思っていたとしても、彼らは表面、外面しか見ないから、重要なのは私が「私なんてまだまだです」と言っていることであって、私が「私なんてまだまだだ。思いあがってはいけない」と自分自身に対して説得していることではなかったのだ。
 むしろ彼らは、私がそういう風に自分自身を抑圧してると、なんだか別の妙な不快感を感じるみたいで、結局のところ彼らは、自分が不快になりたくないだけだったのだ。

 傲慢さの悪いところは、それが人を不快にさせるというただ一点だけであり、逆に言えば、人を不快にさせない傲慢さには、一切の罪がない。
 そして人は、人の内面に対してどうしようもないほど鈍感であるため、私がどれだけ内心で人を見下していても、その人を尊敬するような口ぶり、態度をしていれば、その人は私を友好的な人物とみなしてくれる。

 私は自分の思っていることが全然人にバレないことに気づいてしまった。「察してもらえない」ということは、裏を返せば「嘘がバレない」ということでもある。

 私は嘘をつくのが嫌いな人間だったから、何とか正直なまま人と協調するために、自分の傲慢さを消し去ろうと努めた。でもそれはできなかった。そしてその必要もなかった。結局、嘘を上手につくことさえできれば、私の内面がどれだけ他者にとって不快でも、何の問題もなくなるのだ。そう。他者にとっては。

 私は他者の心の機微に敏感だ。私はその人が言っていないことまで感じ取ってしまう。
 ゆえに私自身はどうしようもなく他人の内面を感じ取って不快になってしまうのだ。内面は、必ずふとしたタイミングでこぼれ落ちる。仲が良くなればなるほど、相手の内面を見て見ぬ振りすることができなくなる。


 私は人との距離を縮めるのが、あまりにも早すぎるのだ。だから……心の綺麗な人としか関わりたくないのだ。

 しかし私の方は……私の心は他者にとって綺麗だと言い切れるものなのだろうか? 私には分からない。

 人と関わるというのはとても難しい。私は今更自分が現実生活において何を演じればいいのかわからなくなりつつある。

 何が守るべき誠実さなのか、分からなくなりつつある。

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