セネカやキケロは読みやすいがウェルギリウスは読めたもんじゃない

 ラテン語は滅びた言語である。優れた著者を多数輩出し、ラテン語を話す人間がいなくなった後も大切にされ続けた言語のひとつだ。
 現代でも、世界中の言語に翻訳され広く読まれている。私自身、カエサル、セネカ、キケロ、プルタルコス(プルタルコスはギリシャ語かもしれない?)らの著作を読んだことがあるし、とても読みやすかった。
 日本人にも読みやすいように翻訳されている、というよりも、元々の文章が翻訳しやすいように書かれていたように見受けられる。当時のローマが、古代ギリシャだけでなく、多くの異文化を受容していたこともあり、ラテン語話者以外の人間にも読まれることを想定していたことが考えられる。(もちろんギリシャは、ローマの支配下にはいった後もローマ人たちから尊敬されていたし、その影響は絶大だった。ラテン語が分からない学識あるギリシャ人、というものへの配慮も少なからずあったのではないかと思う)

 ただ、ウェルギリウスだけはとても読みづらかった。読みづらかったというより、まともに理解ができなかった。翻訳が悪かったというよりも、そもそも、原文でないと意味が通じないような書き方がされているようなのだ。(正確には「なぜこのような書き方をしたのか」が分からない。内容は掴み取れる。でもニュアンスがさっぱり分からないのだ)
 日本の和歌に通ずるものがあるのではないか、と予想している。和歌は、現代日本人ですら、ちゃんと勉強をしないと的外れな解釈をしてしまう難解なものである。当時の人のそのままの気持ちを今の私たちが正確に読み取るなんて、不可能だと私は個人的に思っている。想像することしかできない。
 もちろん簡略化してとらえたり、当時の文化と照らし合わせて解像度を上げていくことはできる。でも現代人が何気なく書く文章を読むように、古文を読むことを私たちにはできない。

 逆に言えば、カエサル、セネカ、キケロ、プルタルコスらは、どの地域、どの時代の人間が読んでも理解ができるように書かれていた。あまり多くの前提知識を必要としないし、個人的な経験にもよらないし、大衆向け(大衆と言えども、当時、字が読める人間はそれほど多くなく、字が読めるのは学がある人間がほとんどだったと考えられる)の文章だった。

 そしてそれは、プラトンやアリストテレスにも言えることだ。彼らの文章がなぜ、多くの民族の手に渡り、何度も何度も書き写され、ほとんど変わらない形で現代まで残ってきたかと言えば、翻訳されてもその意味が理解できるように、書かれているからなのだ。その地域特有の自然的な前提知識をほとんど必要としないからなのだ。


 さて、何千年か経てばおそらく日本という国はなくなっていることだろう。日本語も、もしかしたらなくなっているかもしれない。少なくともその言葉の使い方は今とは異なったものになっていることだろう。

 その地域特有の知識や表現、というのは楽しいものだし、素敵なものだ。たとえ理解できなくても、残せるなら残した方がいい、と私は思う。ウェルギリウスの良さを私は一切理解できなかったが、きっとその詩の精神自体は歴史に大きく影響を及ぼしているだろうし、この先もずっと彼の文章は残り、少数の優れた感性と知識を持つ人間だけが受け取り、継承していくことだろう。それでいいのだ。
 日本の文化も、そのように残っていけばいい。私は和歌や俳句を正確に読み取ったり、その言葉だけで深く感動できるだけの感性も知識もない。私の精神は、あまり日本人的ではないのだ。(翻訳物ばかり読んできたからかもしれない)

 歴史的な日本の文化は、はっきり言って、とても優れていると私は思う。興味深いし、失われずそのままの形で残っていってほしいと思う。
 現代日本人特有の気質(薄っぺらな合理主義)(中身のない感じ)は、私にとっては不快でしかないし、とっとと消え去ってほしいと思うことは多いが、でもこれもまた、後の人から見れば、まぁ悪くないものに思えるのかもしれない。

 翻訳され、世界中で読まれるようなものを書きたいと私は思う。翻訳されても、それぞれの母語で書かれたのと同じように読める文章を書きたいと私は思う。
 地域性の一致ではなく、精神性の一致という意味で「少数の人間だけが理解できるもの」を書きたいと思う。

 無謀だとは思うが、皮肉的になったって仕方がない。それは確かに私の昔からの望みなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?