理不尽

 イライラしていた。日向が私の悪口を言っていた。
「柿谷、前別に頼んでないのにいきなり私が自習してたら口出ししてきて『なんでこんなことも分かんないの』とかって言ってきたんだよ?」
「あぁーあの子、そういうとこあるよね」
「ほんまに。できない人間の気持ち想像とか、できないんだろうね。私たちがどれだけ真面目にやってんのかってことも、全然分からないんだろうね」
「まぁ私たちも天才ちゃんの気持ち分からんしね」
「分からんっていうか、分かんなくはないけど、正直どうでもいいっていうか。っていうかあの子、いつもなんかずれてるんだよね。ずれてるくせに、自分のこといつも正しいって思ってる」
「頭いい人って、すぐ人のこと見下すし、間違ってるって言うよね」
「正しいとか間違ってるとかよりも、目の前の人と仲良くする方が大事だって分からないんだろうね。あぁいうの、いつかぼっちになるよ。今はみんな大目に見てるけど」
「かもねー」
「あーほんといらつく」
 前の昼休みの時、日向は私に数学が分からないから教えてくれと自分から頼んできた。私は快く引き受け、時間を全部潰して教えてやったのに、あいつは私をにらんできた。口にはしなかったが、自分がすんなり理解できないのは教え方が悪いのだ、と思っていることは感じ取れた。私はいらついて、確かに「こんな簡単なことくらいひとりで理解すればいいのに」と言ってしまった。それに彼女は腹を立てて、放課後に私の悪口を言っている、というわけだ。
 彼女は普段は私も含め友達のことを下の名前で呼ぶのに、他の人に悪口を言う時は、名字で呼ぶ。そうすることで「敵」という印象を植え付けようとするのだろう。

 どうやったら仕返しできるだろうか、と考えた。私も日向の悪口を別の子に言えばいいのだろうか。でもそんなことをしても、不必要な軋轢を生むだけだ。
「おーい柿谷。俺らの代わりに掃除やっといてくれよ!」
「え?」
 ひとりで玄関に来た時、いきなり男子たちが掃除箱の箒を取り出して、私に押し付けた。
「じゃ、よろしく! いつもありがとな!」
「え、いつもって……」
 こんなことは初めてだった。いったいどういうことだろう、と思いながら、仕方ないと思いひとりで玄関の掃除をすることにした。別に掃除は嫌いじゃないし、今日用事があるわけではない。
「あ、ゆーちゃん。なんでひとりで掃除してんの?」
 数分経ったのち、別のクラスの友達が声をかけてきた。
「いや、男子に押し付けられて」
「え! 何それ! ひどい! そういうの、ちゃんと先生に言わなきゃダメだよ?」
「でも、そういうのめんどくさいし」
「掃除する方がめんどくさくない? ま、もしひとりで言うの怖いなら、一緒に行ってあげるから。それじゃまたね!」
 そう言って早足で去って行った。手伝ってくれるのかな、と思ったけど、そんなことはないみたいだった。なんだか寂しくなって、涙がこぼれそうになったけど、情けなかったので、我慢した。

 理不尽なことは生きていたらいくらでもある。慣れているし、別に、それでいちいち腹を立てたって仕方がない。
「あ……え、えぇっと。柿谷……さん」
 呼ばれて振り返ると、幼馴染が立っていた。幼馴染と言いつつも、中学校に入ってからはろくにしゃべってなかったから、互いに少し気まずかった。昔、結婚の約束をしただとか、ふたりだけのあだ名を作っていただとか、一緒にお風呂に入っていただとか、そういうことを思い出すと、互いにただ何というか、気まずいのだ。
「こんにちは」
 同級生に、ただそう普通に挨拶すること自体が、何か違和感があった。だから「宮田君」と名前を付け足してみたが、やっぱりそれも違和感があった。
「どうしてひとりで掃除してるん?」
「クラスの人に押し付けられて」
「え? イジめられてんの? 大丈夫?」
 そう言いながら、彼はこれ見よがしにカバンを下ろして、掃除箱の方に向かって塵取りを持ってきた。
「多分、違うと思う。こういう目にあうの、初めてだし」
「ほんとに?」
「分かんない」
 それ以上、彼は何も言わなかった。
「ありがとう。手伝ってくれて」
「うん。それじゃ、帰るな」
「一緒に帰らない?」
「え? いいの?」
「いいのって何が? それだとまるで、宮田君、私と一緒に帰りたかったみたいだけど」
 彼はみるみる顔を赤くして、背を向けてかばんを取りに行った。
「行こう行こう」
 そう言って、前を歩いた。思わず頬が緩んだ。

 朝いちばん、日向が話しかけてきた。
「ゆーさ、彼氏できたん? 友達が、男と歩いてるとこ見たって言ってたけど」
「幼馴染だよ」
「ふーん。でもそんな話、うち聞いてないけど。友達なのになんで教えてくれなかったん?」
「幼馴染なんて、誰にでもいるでしょ」
 日向は顔をしかめた。
「うちにはいないよ。昔からの男友達なんて」
「そうなんだ」
 知ったことじゃない、と思った。
「っていうか今までそういうの興味見なかったじゃん、ゆー。恋愛とか」
「だから恋愛じゃないって」
「でも今まで、男と歩いてることとか、なかったじゃん!」
「なんで怒ってんの日向」
 彼女は一瞬何かを言おうとしたが、堪え、ため息をついた。
「怒ってないし」
 そう冷たく言って、他の友達の方に行った。その友達にかける声は、私と話したときよりもワントーン高くなっていた。

 その日、クラスの他の友達もなんだか私に冷たかった。反応が明らかに薄かったのだ。敵意は感じなかったから、嫌われているわけではないと思うけれど……
「あ、柿谷さん。今日も掃除よろしくね」
「嫌だ」
「ま、そう言わず。いつもありがとねー」
 結局箒を押し付けられる。確かにこれはもう、先生に言った方がいいような気がした。
「柿谷さん」
 見計らったように、宮田君が出てきた。
「あぁ宮田君」
「手伝うよ」
「失礼な疑いかもしれないけどさ……」
 そこまで言いかけて、宮田君はぶんぶん首を振った。
「誓って、違う。俺はあいつらと友達じゃないし」
「いや、そういうことじゃなくて、私のことつけてた? って聞こうとした」
「あ、そっか。えっとそれは、その。心配だったから、うん。ごめん」
「でも、どうして? 今までずっとそっけなかったじゃん」
「俺、そっけなかったかな」
「中学なってからほとんど話したこともなかったし、気まずかったじゃん」
「まぁ、そうだけど……」
「余計な詮索かもしれないけど、なんか変な友達に影響されてない? 恋愛とか、私するつもりないよ」
「いやいやいや。そういうんじゃない。でも、昔仲良かった人が、なんかつらい目にあってるの、放っておけないじゃん。もし柿谷さんが男でも、俺、同じことしてたよ」
「そっか。ごめんね疑って」
 そう言いつつも、私は心のどこかでうんざりしていたし、疑いも消えてはいなかった。
「いいよ。仕方ないと思う」
「年頃だからね」
「うん。お互いに」

 次の日、私はクラスのみんなから無視された。体育の授業で、ペアを組むときにあぶれるのは初めてだった。でもその時、私は今までクラスで誰があぶれているの知らなかったし、全く意識していなかったというのを自覚して、まぁ、なるようになったな、と思った。
 男子の方でもあぶれている人がひとりいて、その子は発達障害の男の子で、先生はさすがにその子と私を組ませるのは私が嫌がるだろうなと気を遣ってか、それぞれどこかのペアに入れてもらって三人でやるよう言ったが、私はどのペアに入れてもらっても嫌な顔をされるのが分かっていたから、胃が痛かった。見かねた先生が、結局無理やり日向のペアに私を入れたのだが、日向は分かりやすく舌打ちをしたし、柔軟体操の時に私の頭を意味もなく叩いたりして、私を苦しめようとしてきた。私は拳を握りしめたけど、それを振り上げることはなかった。

「いつもありがとなー」
 怒るのは、美しいことじゃない。仕方ない。我慢するしかない。
 私はため息をついて、玄関の掃除をする。
「手伝うよ」
「ありがとう」
 でも、私は思うのだ。なぜ、彼に感謝しなくてはならないのだろう? 私がこんな目にあっているのは私のせいじゃないし、そもそもこの掃除だって私の仕事じゃない。どうして私ばかりが、こんな風に我慢しなくてはならないのだろう。
「俺さ、ふだん掃除とかめんどくさいと思うし嫌いだけど、でもこうやって昔の友達とまた仲良くなれるきっかけになるなら、悪くないなって思うんだ」
 ふと、彼はそう言った。私はそういう無神経さに腹が立った。
「私、今日クラスの友達からひどいことされたけど、その理由のひとつは君みたいだよ」
「え?」
「私が勉強できて、モテて、彼氏までいるとかって話になってて。しかも周りを見下してるから、痛い目に合わせてやろうって、そう思ってるみたい」
「え……」
「女子って怖いなぁとか思ってる? もうだるいんだよ。なんで私ばっかり我慢して、いい子のふりしなくちゃいけないんだろうって、マジでそう思う」
「ゆーちゃん……」
 昔、彼が私のことをそう呼んでいたことを思い出した。ゆーちゃん、ゆーちゃんって言いながら、ことあるごとに引っ付いてきて、少しうっとおしいなと思っていた。
「もう昔とは違うんだよ。宮田君はさ、優しくていいやつなんだろうけど、私の周りの人間はそういう人間ばっかりじゃないから、勝手に決めつけられて、勘違いされて、私がひどい目にあうんだ」
「ごめん。俺……その、明日から俺ひとりでここやるから、押し付けられても帰ってくれていいよ」
「そういうことじゃないって分かってるでしょ! っていうか、そんな風になったって宮田君もどうせ帰って放ったらかしにするじゃん!」
「ごめん」
「そもそもなんで私たちは、こんなバカみたいなことやってるの? ほんとバカみたい……」
 「うわ、痴話喧嘩だ」と、下級生の男子がすれ違いざまに言ってきて、くすくすと笑ってきた。私は腹が立ったけど、もうどうしようもないと思った。
 結局私たちふたりは黙って玄関の掃除を隅から隅までやって、昨日おとといと同じように並んで歩いて帰った。帰り際、連絡先を交換した。
 自分の行動の理由もよく分からないし、この先どうすればいいのかも分からなかった。両親に相談しようと思ったけれど、めんどくさかったのでやめた。あの人たちはいつも忙しくしているから、こういう話をしても苛立たせるだけなのだ。変に出しゃばられても困る。余計私の立場が悪くなる。



 私の見ている現実は、こんな感じだった。誰もが、こういう灰色の現実の中を生きていた。
 不愉快で、美しくない、こんな生活の中で、みなが生きているように見えた。
 なぜ生きていかなければいいのか分からなかった。

 折り合いも納得も、肯定も理解も、協調も愛情も、私には全部嘘のように思えた。
 自己と環境の調和がとれていることなんて、一度もなかった。いや、ひとりきりで、何もせず、こうやってほとんど誰も読まないような文章を書いている時だけは、自分の中で、存在と感情が調和しているように感じられる。
 この小さな悲しみと苦しみ、人間社会への絶望のようなものをただ、そのままの形で描き出している時だけは、私は自分が生きていることを肯定できるような気がしている。

 この世のほとんどのものに、私は価値を見いだせない。人間の生や、彼らの生活を、守るべきものだとは、どうしても思えない。それなのに、私という人間がそういう人たちと大して違わない存在であるという事実が、私には吐き気を感じさせる。

 あぁ、全部おしまいにしてしまいたい。もし死んでしまえば、あの連中とは違う存在だったものとして存在を終えることができるから。でもそうやって、手っ取り早く何かを片付けようとしてしまうこと自体が、ひとつの凡庸さであり、私が避けるべき生き方なのだということを、私は知っている。

 私は彼らを軽蔑しているし、復讐心も抱いている。それらの感情自体が私を苦しめているのは知っているが、忘れようと思っても忘れられなかったし、消し去ろうとしても消え去ってくれなかった。

 前向きに生きることが、それだけでどれほど難しいことか。考えないことが得意な連中にはきっと分からないことだろう。

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