たくさんの失敗を経験すること

 生きてきて、失敗とか恥とかたくさん経験していると、一回一回の失敗があまり気にならなくなってくる。傷つくことになれて、傷ついてショックを受けても「まぁ時間が経てば今の気分も改善されるでしょう」と割り切ることができるようになる。素直に休むことができるようになる。

 とりあえずやってみよう、と思って何かをやると、たいていはうまくいかないし、恥ずかしい思いをすることも珍しくない。でも、うまくいかなくて自分のプライドが傷ついたり、恥ずかしい思いをしたとしても、それで自分が何か決定的に変わってしまうわけではない。そうなる前から自分はそれができなかったのは本当のことだし、実際に動くことによって自分にそれができないのが明らかになるのだから、決して無意味なことでもない。むしろ、それは避けては通れないことであった、と考えられる。

 何かつらいことがあったり、耐えられないことがあったとき、それを小さなものとして感じる方法があるとすると、それより大きなつらいことや苦しいことに向き合うことだと私は思っている。もちろんそれは体にとても強い負荷をかけることでもあるから、慎重にやらなくてはいけないけれど、でもどうしても過去の失敗を引きずっていて抜け出せない場合は、やはり、また別の失敗を重ねることが、それから抜け出す最善の道であると思う。
 ひとつのいやな過去で大きく苦しみ続けるよりは、複数のいやな過去で苦しみを小さく分割した方が楽である、という場合もあるのだ。

 たくさん苦労をしてきた人ほど、苦労話を軽くて何でもないことのように話すことができる。それはその人がその苦労を軽く見ているからそうなるのではなくて、そういう苦労を複数経験しているから、その人自身にとって大きすぎるものとしては捉えられなくなるからなのだ。
 たとえば、人生に一度だけ家族と死に別れた経験をしている人にとって、その経験はとても重くて、思い出すだけでつらいことだと言えると思う。対して、自分以外の家族がほとんど死んでしまっている人にとって、その自分自身の現状はつらいものかもしれないが、ひとつひとつの死の思い出自体は、先に言ったような人ほどの強い印象を残してはいない。その人にとって死は身近であり、それほど身構える必要なく耐えることのできるものとなっているはずであるからだ。

 人と人との苦労の大きさや数を比較することはあまり品のいいことではないが、しかし、それを考慮した方が人間関係が円滑になる場合は多々ある。あまり人と深く関わってこなかった人に、いきなり突っ込んだ話をしたって相手をびっくりさせてしまうだけだし、逆に経験豊富な人に対して過剰な気遣いをしても、あまり意味をなさないことが多い。

 個人的に、その人自身がどれだけ苦労をしてきたかは、理不尽なことに対する反応で測れると私は思っている。理不尽なことをされても落ち着いて(あるいは適度に感情を表しながら)対処ができる人は、そういうことに慣れているし、逆にそういうことがあると感情的になりすぎたり、固まって何もできなくなってしまう人は、あまり慣れていないものだと私は思う。
 生きていると、何もしていなくても急に怒られたり、気持ちの悪いことを言われたり、色々とひどい目に遭うことがある。それにいちいち文句を垂れたり、仕返ししようとしたって仕方がない。変えられる部分は変えた方がいいけれど、変えられない部分に関してはできるだけ早く忘れた方がいい。そういう判断力は、色々な経験をしていないと身に付かないものだと、私には思える。

 ただ厄介なことに、ひとつの経験からどれだけ多くの教訓が得られるかということは、かなり、素質や素養、才能、人との出会いに左右される、というのが本当らしい、ということだ。
 たくさん苦労をしてきたのに、その苦労をしっかり自分の中で噛み砕けていないせいで、落ち着いて対処をすることができない人がいるのに対し、まだ若くて多くの経験を積んでいるわけではないのに、少ない経験と人から聞いた話をもとに真剣に悩み、知性を鍛え続け、どんなときにも有効な手段を選べるような人もいる。

 人間に潜在的な優劣はない、と思いたいが……そういう点での優劣は、やっぱりあると思うし、それは尊重されてしかるべきだと思う。
 私はそういう意味で、正直に言うと、優れた素質や素養を持つ人間が好きだし、そうでない人間は、少し苦手だ。


 優れた素質を持つということはつまり、少しのことから多くのことを学び取れるということ。それは、言い換えると、小さなことで大きな衝撃を受けてしまう、ということでもあると思う。

 なかなかに難しい話だ、と思う。優れた人間ほど、弱さと強さの両方を持たざるを得ない、なんて。

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