国家なしに現代的な社会は成立するか

 先にことわっておくが、私は国家主義者ではないし、無政府主義者でもない。既存の主義に対する「好き嫌い」はあるが、所属意識はこれっぽっちもない、ということははっきりと言っておこうと思う。(好き嫌いという意味では、私は国家主義も無政府主義もあまり好きではない。どちらも極端で排他的だ)

 私たちの実際の生活は、あまりにも多くを国家的な部分に支配されている。学校制度もそうだし、税制度もそうだ。公共の施設もそうだし、道路や公園だってそうだ。電気もそうだし、通信もそうだ。国家がルールを定め、そこから逸脱しない範囲で人々が自由にやっているからこそ、便利な生活がある。それは事実だから、認めないといけない。
 ただし、その事実から「ゆえに、国家なしには現代的社会などありえないのだ」と結論するのは、独断的であると言える。私たちは国家的な制度外で成立する現代的な社会を想像することはできないが、想像することができないということが、すなわち不可能である、ということにはならない。
 まだここにはなく、これまでに一度もなかったことが、今後も絶対に起こり得ない、とするのは誤りであり、近代以降の進歩的な精神に反する考えでもある。

 そういうわけで、私たちは私たちの狭い視野と貧しい想像力で、とりあえず試してみよう。国家なしに現代的社会が成立するか、考えてみよう。

 そもそも現代的な社会、というのをどう定義するか。私はこれを「豊かさ」と定義したい。物質的に満たされており、飢える心配も寝る場所の心配もいらない社会、と定義したい。万人が必要な時に必要なものを必要な分だけ手に入れられる社会、と定義したい。
 もちろん「この現代日本社会」が完全にそうだとは言わないし、そもそもこの社会にはもっとたくさんの要素がある。ただ、私たちがこの社会を「よいもの」として見るとき、そのもっともたる理由は何か、という問いにたいする答えとしては、その「豊かさ」が、相応しい答えなのではないかと思うのだ。
 言い換えればそれは「利便性」とも言える。私たちが現代的な社会を、それ以外の古代や中世のような時代の社会と比較して、はっきりと「よい」と言える部分は、それである。
 安全であること。物質的な欲望を簡単に満たすことできること。
 現代的な社会が価値あるものとされるゆえんはそこにあり、私たちが現代的な社会に感謝し、それに恩義を感じるとしたら、その部分であるのだから、この先考えを進めるうえで、こう定義した方が都合がいいのである。

 今の「国家」や「社会」が、人々に対し「我は意味のある存在だ」と言う時、その一番の材料がそれなのである。「我は存在すべきだ。お前たちは、それに従うべきだ。なぜならお前たちは、俺がお前たちにしてやったこれこれのことを享受しているのだから」と言ったときの「これこれ」の部分には、やはり「豊かさ」が来る。だから、現代的社会の条件として「豊かさ」を主張したいのだ。豊かさ(安全や利便性も含めた)さえあれば、現代的な社会がその他の社会に対して優れている部分は一切ない、と私には思える。

 歴史上、国家は私たちを豊かにしてきた。国家なき社会においては、その時々で人々が「掟」を定め、それを破ったものには、その時の指導者や、有力者たちが相談して罰を与えていた。
 何らかの選択に迫られたときも同様だ。力を持った人々が相談して決めていた。当然、その力を持った人々のところに富が集められ、そうでない人たちは比較的抑圧された生活をしていた。
 それ自体は、現代的な社会においてもあまり変わらない。変わったのは、その規模が大きくなったことと、仕組みや動き方が複雑化し、ひとりひとりの人間が専門的になったことだ。現代的な社会が豊かであるのは、それだけ多くの知的な積み上げと、より大きな労働力の結果である。
 逆に言えば、国家という体制がなくとも知的な積み上げと巨大な労働力さえ自由に使えれば、私たちは豊かな生活を送ることができる。

 だがさらに問おう。知的な積み上げと、巨大な労働力をある個人、あるいは集団が所有した時点で、それはある規模を超えたら、事実上の「国家」になるのではないだろうか? たとえそれを「国家」以外の呼び方をしたとしても、その動き方自体は既存の国家とそう変わらないものになるのではないだろうか?

 巨大な労働力を扱うためには、それだけ多くの人手とシステムがいるし、その人手とシステムというのは放っておいても何とかなる問題ではなく、計画的に育てることによってしか、手に入らない。それを育成するためには、ある特定の種の人間を奴隷的に扱って、強制的に学ばせるか、あるいは欲望を餌に自主的にそのような労働に着手するよう誘導させるしかない。
 知的な積み上げも同様である。知性や労働自体を求める人間も少なくはないが、彼らもその時々で人々から必要とされる仕事を選んでするような気質を持っているとは限らないのだから、たいていはそこに対価、あるいは強制が必要となる。そこで「誰がその対価や強制を用意するのか」という問題になってくる。
 それをひとりの人間がやったのならば、それは「王国」になる。複数の人間がやるのなら「共和国」だとか、何だとかになる。いずれにしろ、多数の人間がその欲望を満たすために、何らかの労働を必要とする場合、そこには国家的な何かが必要となる。

 何らかの労働力を必要とする大規模な計画を実行する場合、国家的なものなしには不可能なのである。

 と言いたいところだが、現代における「企業」というものは、その国家的なプロジェクトを単独で行うことができるだけの力を持っている。
 「企業」というのは、国家とは違う名を持ち、違う規則に従っているものの、実際的には、国家的にふるまう。その企業における基準や規則を守れなかった人間は、追放処分となる。つまりクビとなって、対価も得られなければ、身の安全も守ってももらえなくなる。

 冷静に考えてみるならば、もし国家が存在しなくとも、何らかの理念を持った企業が存在していれば、現代的な社会は成立する。しかしその場合、その企業は「企業国家」と呼ぶべき何かなのだが……だが、あらゆる企業は、先ほど私が述べた定義に沿えば、すでに「企業国家」と呼ぶべき何かなのだ。
 その企業が何らかの目的を有し、ある規模以上の労働力を使っているのならば、そこで行われていることはほとんど国家のやっていることと同じである。名と歴史と基本的な骨格が違うだけで、存在の根本的な仕組み自体は同じである。ネコとトラくらいの違いしかない。

 企業に就職するとき、私たちは昔から「雇われる」という言い方をしてきたが、それはかなり受動的な言い方だ。能動的な言い方をするならば「働く」でも「勤める」でもなく「仕える」という言い方の方がよりしっくりくるように、私には思える。心の底で忠誠を誓っていなくても、忠誠を誓っているかのように振る舞わなくてはならない。国家に貴族や軍人が仕えるように、現代社会において私たち一個人は企業に仕えているのだ。

 企業を立ち上げることは、実際的な意味において、国家を建設することと……あまり変わらないのかもしれない。土地を購入すれば、それは確かに所領として扱うことができる。現代における国家というのは帝国的で、帝国というものがたくさんの小国を統治することで成り立っているように、たくさんの企業を内に抱え込むことによって成立している。
 実のところ現代社会というのは、封建制の亜種なのではないか? 自分たちを広く緩く統治している「国家」というものの規則に反しない範囲で、ある程度の自由が認められ、その中で自分たちの目的に応じて、仕事をしていく。「生きる」ということをしていく。
 自分のところに所属したいという「移民者」を選別する。一度彼らを自分たちの領土の内側に入れたなら、自分たちは彼らを養う責任を持つし、同時に彼らにはその国(企業)のルールを守らせなくてはならない。だから、それができなさそうな人間を自国民(社員)にはしないようにする。

 もしかしてだけどさ、自分にとって心地よく過ごせる居場所がなくて、それを作りたいと思ったなら、起業するのが手っ取り早いのかもな。自分でルールを決めて、それに従って生きることができるし、自分で受け入れた仲間たちにも、それを守るように命令することができる。共に何らかの目的をもって人生を進めることができるわけだし。

 企業というものについて「より多くの利益をあげて、どんどん巨大になっていくもの」という印象を私は勝手に抱いていたけれど、国家というもののすべてがそのような拡張路線に進む侵略国家でないのと同じように、企業というのも本来であれば、その企業の活動、あるいは生存に必要なある特定の規模まで進めば、そこで拡大するのをやめて、その本分(目的)は全うすることに集中するようなものなのかもしれない。利益を優先する企業があまりにも目立ちすぎているせいで、私は何か勘違いしていたのかもしれない。
 冷静に考えてみれば、企業というのは、その企み(プロジェクト)を実行することにその本質がある。で、あるならば、やはり企業というのは小さな国家であると見てもいいような気がする。



 予想してたのと全然違う方向に考えが進んでいったけど、なかなか面白くなったのでよしとしよう。
 企業というものが、国家というものと基本的に同じはたらきをするということ。その発想は多分、他の多くの人も思いついていることだろうけど、私自身の中でこの考えが生まれてきたのははじめてな気がする。

 あと、何らかの手段で継続的かつ安定的に収入が得られるなら、確かにその企業での労働時間中何をやっても自由なわけだし、その中ですごく居心地のよい空間を作ることができるわけだし……何か思いついたら、起業するのを選択肢に入れるのもありだな。金と知恵と人望さえあれば、人手は集められるわけだし。
 いや違うな。そうじゃない。ひとりではできないけれど、どうしてもやりたいことがあるとき、その具体的な計画が建てることができるなら、そういう時にこそ起業すべきなわけだ。現代日本では、将来への見通しがあり、人を説得させるだけの知性があれば、誰もがその計画を実行できるだけの制度と環境が整えられている。

 働くのが嫌だという理由とか、楽して稼ぎたいという理由で起業するのはなんかあれだけど、たとえそれがとん挫するとしても、やってみたい計画があるならば、周囲を巻き込んで国家を建設するように起業してみるのも面白いのかもしれない。
 起業する、って考えると全然楽しそうじゃないけど、国家を建設する、って考えるとすごく楽しそうだし、やってみたいと思う。でも実際的にやってることはそう変わらないはずなんだ。たくさんの手続きをこなし、金と人を集め、実際にそれらを動かしていく政治的な活動。
 儲けるために何かをやるのではなく、やるべき何かをやるために、儲ける。経済活動をそういう風に捉えるなら、不快には感じないな。

 今のところ私にそういう「やりたいこと」はないけど、この先何か運命的な思い付きがあれば、それも選択肢に入れて考えてみることにしよう。


 今回は比較的、思索が現実に結びついたみたい。珍しい。


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