技能の価値・プラトンへの親近感・科学について

 私は幼い頃ピアノを習っていた。全然うまくならなくてすぐにやめた。じっと座って、正しく指を動かす、というのもあまり好きではなかったのだ。だんだんイライラしてくる。今でも試しに弾いてみようと思って電子ピアノを触ることはあるが、ものの数分で頭痛がしてくる。そういう人間なのだ。
 ともあれ、ピアノを弾く、という技能を生かせる職業の代表は小学校の先生で、その次に、ピアノの先生だ。(小学校の先生は、ピアノだけでなく、色々なこまごまとした最低限の技能が要求されることが多く、意外と高度な職業であり、個人的にもっと給料と社会的地位と労働環境が改善されてほしいと思っている)
 ピアノが特別と言えるほど得意な人間のうち、有名なピアニストとしてやっていける人はあまり多くない。ほとんどの人は、ヤマハのピアノ教室みたいなところでピアノを教えていたり、高校の音楽の先生、音楽系の専門学校の先生になったりしていることが多い。プロレベル、というより、彼らこそがプロなのだ。

 ピアノを弾くことが得意で、それを武器に活躍している人の多くは、「ピアノをもっとうまく弾けるようになりたい」という、かつて自分が抱いていた欲望や情熱と同じものを持った人たちの存在によって成り立っている。ピアノを職業にしている人の多くは「ピアノが弾けるようになりたい」と思う人が一定数いることによって、その商売が成立しているのである。「ピアノが弾けること」に、一定の価値があることによって成り立っているのだ。

 これはピアノに限った話ではなく、多くの芸術の分野においても同じことが言える。他の楽器はもちろん、歌もそうだし、絵や習字もだ。その技能自体が自己完結的に価値をもっており、完成品自体(ピアノでいう、演奏自体)が金にならなくとも、その技術を他に伝授できるということで、価値が生じるのである。

 そしてこういうビジネスは、社会的な「価値の心理」によって成り立っている都合上……新しい「価値」が生まれるタイミングで、大きな動きを見せる。
 
 極端な話「ゲームがうまいこと」に価値があるなら「ゲームがうまくて、それを人に教えることが得意な人」はそれだけで、職を手に入れることができるわけだ。
 「それっぽく文章が書けること」に価値があるならば「それっぽい文章が書けて、それを人に教えることが得意な人」も同様に。(これは多くのnoteユーザーにとって、関心事であるのではないか? もっとも私の文章を好んで読むような人は、あまりそういう風なことに興味がないことが多い気がするが)

 ただ、何を教えるにしても、共通して必要な技能や能力というものがある。コミュニケーション能力や、誠実さ、相手のことをよく見る能力(洞察力)などだ。場合によっては、嘘を信じさせる能力も必要だろう。もちろん、自分の利益のために相手に嘘を信じさせるのではなく、その相手自身のために、一時的に嘘を信じさせるのだ。
 誰かにものを教えるという商売は、基本的に相手の利益がそのまま自分の利益になる。相手が自分の教育に満足し、結果を出せば出すほど、評判に繋がり、強気の価格設定ができるようになる。何らかの卑劣な手段を取ればその限りではないと思うが、そういうのはたいてい長続きはしない。長期的に見て、誠実であるということほど役に立つ徳はないと思う。

 社会が豊かで安全になればなるほど、生活の役には立たない、いわゆる「趣味」の分野の価値が高まる。そして趣味というものの多くは、自己完結的なものだ。それが別の分野に応用可能であることは多いが、応用することを前提に学ぶことはあまりない。それ自体を目的として学び、結果としてそれが応用可能となって役に立つ、というのが実情であることばかりだ。

 ただ、厄介なことに自己完結型の教育ビジネスは、それが人気になればなるほど、競争が激化し、求められる技能のレベルがどんどん高くなっていく。たとえばピアノを習う人間が増えれば増えるほど、ピアノがうまい人間が増える。当然、ピアノで稼ぎたいと思う人間も増え、ピアノを教えることを職業にしようとする人間に対して、ピアノを教わりたいと思う人間の数が足りなくなる。

 上手に教える人間だけが生き残り、教わった方もどんどん上達していくが、大半はどれだけ上達してもそれで食っていけるようにはならない。なかなか厳しい世界だ。
 だが、技能というのはやはりそれ自体に価値があるし、応用可能なものでもあるのだ。何よりも、楽しい。上手にできるというのは楽しいのだ。それ自体が、ひとつの幸せの形なのだ。
 私はピアノを弾くことのできる人間ではないが、ピアノがうまい人がピアノを弾いている姿を見ると、幸せそうだと思う。その幸せは多分、私には一生味わえないものだ。あぁ。だからこそ、価値があるのだ。
 絵を描くこともそうだし、踊ることだってそうだろう。墨で字を書くのものそうだし、文章を書くのだってそうだ。ある一定の技能レベルを超えると、それ自体が幸せになる、と私は思っている。もちろん、その幸せは風呂や食事の幸せとは異なり、苦痛や苦労と表裏一体のものではあるが、しかしだからこそ、より大きくて味わい深い幸せなのだ。


 人生は、やってみないとわからないことばかりだと思う。やってみる、ということは、考えてみる、ということも含まれている。書いてみる、というのもそうだ。
 私は最近「とりあえず立ち止まって考えてみること」が、一種の特殊な技能に含まれることに気づいた。それが楽しくて、幸せなのだ。考えることによって、何か得しようとかそういうことではなくて、考えること自体が楽しくて、喜びで、生きているという実感が得られるのだ。

 誰かを説得するためじゃない。自分を説得するためでもない。結論するためでもない。何かを決めるためでもない。
 ただ、考える。何かが少しでも明らかになればいい。より多くのことを、考えられるようになればいい。

 古代ギリシャのソフィストと呼ばれた人々は「人を説得する技能」などを教える、自己完結型のビジネスマンだった。
 ソクラテスは、宗教的な人間だった。金とはほぼ関わらない人間だった。その弟子プラトンは、ソクラテス的な徳を職業にした。「考えることの幸せ」を教える、自己完結型のビジネスマンだった。知の飛び火とはよく言ったものだ。確かにそれは、一個の技能で、文章で教えられるものではなく、実際に共に考えることによって育んでいくものだったのだ。
 何かに誘惑するなら、それがいかに幸せなことか、はっきりと示すのがいい。プラトンの文章からは、彼の幸せが確かに滲んでいる。楽し気なのだ。楽し気でありながら、誘う者の顔をしている。

 傲慢かもしれないが、はじめて読んだ時からずっと、私は彼、プラトンに親近感を抱いている。歴史上なぜ、プラトンの言ったことや書いたことばかりが注目され、プラトンの性格や生き方自体があまり注目されてこなかったのか、私にはよく分からない。彼がいかに知的な意味で高貴かつ誠実であったことか! どれだけ深く悩み、苦しみ、その先でまばゆい光を見たか!
 彼がいかに慎重であったか。彼がいかに、自分にとって一番確からしいと思える論でさえ、控えめに、まだ完全には決められないこととして説明していることか。
 彼にとって、イデア論は、最初から最後まで仮説であった。いや、仮説であるべくして組み立てられた理屈だった。イデア論は、実在論などではなく、道徳論だった。政治的、実際的な理論だった。そんなものがあるかどうかではなく、あるものとして取り扱わなくてはならない、という道徳的な規則だった。宗教的な理屈だった。
 それがいかに大きな価値を持っていたか。どれだけ多くの人々を誠実にさせてきたか。どれだけ多くの人々を、学問の世界に導いてきたことか!
 学問とは一種の宗教的な感情を基に動いている、ということを忘れている人間は、人間の宗教的な感情に対して恩知らずだ。私たちが「客観的」だとか「合理的」だとか口にするとき、私たちはその時点で「正しいものは存在する」ということを信じている。「客観的なものと非客観的なものは区別できる」ということを信じている。大した根拠もなしに! ……もし根拠があったとしても、その根拠の根拠は? その根拠の根拠の根拠は? あぁ。どこまでさかのぼってくれても構わない。ただ、どこまでもさかのぼれるという現実は、私たちが先に「正しいものは存在する」という仮定を作り出し、そのあとにその根拠を探した、という時系列を示す。そしてその時系列が証明するのは、私たちの信仰心だ。
 正しさや合理性、客観性や、再現性。なんでもいい。ただ、それら自体に私たちが同意を与えるのは、理屈ではなく、信仰心なのだ。
 私たちは、科学と現在呼ばれるている当のものを信じていない。だが、科学的方法、と呼ばれているものの妥当性は、信じている。私たちは、信仰しているのだ。信仰していていいのだ。

 もしかすると、科学的方法自体に、何か決定的な問題点があとあと見つかってきて、いずれ星占いや八卦などと同列で語られるようになることがあるかもしれない。あるいは、今そうだと認識されている「科学的方法」とはまた別の、もっと細かく、複雑で、有用な、新しい別の方法が「科学的方法」と呼ばれるようになるかもしれない。いや、少なくとも今の「科学的方法」は、あまりにもその定義が曖昧すぎるし、本当にそう呼んでいいのか分からないような方法まで、そのカテゴリの中に突っ込まれ、その妥当性を利用されているような印象を、私は感じている。

 私は、現代の科学には触れたくない。百年前、科学と呼ばれていたものが、現代では「全然科学的じゃなかった」と言われることが多いように、おそらく、今、科学と呼ばれているものも、百年後には同じように言われることが多いと予想できる。
 進歩している、とは思う。積み上げている、とは思う。だからこそ、今、私が実際に確かめたわけでもない、誰かがでっち上げたかもしれない実験やデータをそのまま信じることはできない。そこに何らかの勘違いや恣意的な解釈が内に含んでいることを否定することができない。
 その妥当性は、方法論よりも時間が証明する。どんなに信じられたものも、時が経てば必ず反論されるし、その反論によって砕け散るものは、最初から砕け散る定めにあったものだ。私は自分の貧弱な知性で、今の科学の正しさや妥当性を判断するのは避けることにする。全て疑わしいものとして、認識をまどろませることにしている。

 私は、自分で決められることが好きなのだ。
 科学には、そんなスペースは基本的にない。あってはならない。
 だから私は、科学とは別のものを信仰すると決めている。

 私は今、おそらく、私の理性と感情の両方を、神聖なものとして崇めている。この領域にも広がりはある。まだ知られていない理性や、まだ知られていない感情が、世界には多く眠っているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?