客観的であるということはとても苦しくて、それでいてあまり役に立たない【考察】
客観的というのがどういうことかということを、まず掘り下げよう。
どこに規定を置くかというのが重要なのだが、めんどくさがりな私や怠惰な私は、そこに「辞書的な定義」を持っていこうとする。
しかしそれはあくまで、一面の真実に過ぎず、言葉というのはそんな簡単なものではない。
「客観的とは特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま」である、なんていう見解では、到底満足できない。
「主観的でないこと。それが客観的であるということだ」なんていうのは、そもそも「主観的」というのがどういうことか分かっていないと意味がない。
私たちは「主観的」ということがどういうことなのか、まずちゃんと理解していない。それなのに、客観的という言葉を使いたがる。
たとえば「神の視点(永遠の相のもとに)」は「客観的」だろうか? それとも「主観的」だろうか。
そもそもそのような視点を「持つことのできる人間」はそれほど多くない。スピノザ的な「神の視点」は、「人格神の視点」ではないので、完全にただ「認識する神」なのだ。そのような神の視点でものを見れる人間が、どれだけいるだろうか? そしてそれは、どのよう程度共有可能であろうか?
ほとんどの人間が理解できないことを、想像すらできないことを「客観的」と言っていいのだろうか?
別の例も出そう。
ここにひとりの人種差別的日本人がいる。
彼は「韓国人は日本人より劣っている」という考え方を持っているとする。
そのうえで、彼はこうとも思っている。
「客観的に見れば、日本より韓国より国力が高い。だから客観的に、日本人の方が韓国人より優れている」
これは本当に客観的だろうか? いやいや、そもそも論理の使い方がおかしい。
国力の定義も曖昧で、そもそも人種間の優劣の考え方自体が、疑問である。
(そもそもこれがまかり通るなら
「客観的に見れば、日本より中国の方が国力が高い。だから客観的に、中国人の方が日本人より優れている」
とも言わなくてはならない。彼にそういうことが言えるとは私には思えない)
ではこの場合は?
「客観的に見れば、国家や人種というのは後付けの偽造物であり、本質的には存在しないものである。ある特定の場において、それがひとつの共通了解として機能するから、まるでそれが本当に存在しているかのように取り扱われるのである」
こういう見方を、客観的と呼べるだろうか? これは客観的というかそれ以前に、ものごとを単純化して捉え、大前提を根こそぎひっくり返すやり方だ。
私にはこれがあまりにも短絡的で一方的でやり方に見える。つまり「めんどくさいからこういう風に考えることにしよう」という利己的な意志が働いているようにみえてならない。
客観的という概念は、まずものすごく曖昧かつ不安定で、その場その場において「何が客観的とされるのか」は異なっている。何か明確な基準があるわけではないが「大体こう」という風な感覚は、多くの人の間で一致している。
だからこそ、疲れるのだ。
客観的だと思われるために、人はその場その場の「客観的とはどういうこととされているか」を感じたり分析したりして、それも考慮したうえでの「自分の意見(主観的な動機に基づく)」を言わなくてはならない。
それならいっそのこと「これは主観的な意見です!」と言えばいいじゃないか! だってその場限りの客観性に、どれだけの意味があるだろうか?
客観的であるということに、客観的な意味は存在するか? 私にはそれが疑問で仕方がない。
そもそも「客観的に意味がある」ということが可能なのか、分からないのだ。
だってそうじゃないか。「特定の立場によらない」つまり「あらゆる立場に立って」常に意味があることなど、存在するだろうか? だいたいどんな事柄でも、例外はあるし、別の誰かにとっては意味がないことだ。
「ほとんどの人の立場に適っていたら、それでいいじゃないか」と、雑な考えを許す人は言うかもしれないが、その「ほとんどの人の立場」すら、時代や地域によって大きく変化してしまうのだ。
そうだ、時代や地域すらも見下ろすような「広い客観性」を持つ場合、そもそも客観的であることの機能を保てなくなるのだ。
人を説得するために意味のある「客観性」は、ある程度「時代の主観性」が混ざっていなくてはならないのか? そんな、矛盾しているかのような問が私の目の前に現れて、私を嘲笑っている!
何が客観的であるかということをほとんど考えたことのない人間が、あーだこーだ言っているのを見ていると吐き気がする。
よくそんな、平気で矛盾したことを言えるのか理解できない。それならもういっそのこと「私たちは常に主観的です。矛盾してしまう生き物なので、大目にみてください」と言っていればいいじゃないか。
少なくとも私自身は、私自身に対してそう思っている。どれだけ私が意志して「客観的であろう」としても、そこには偽装された主観が必ず紛れ込む。
私は自分の意見をほとんど客観的でないものとして扱っているのに、誰かが勝手に「あなたはとても客観的だ」などと言い始める。
私は混乱するし、客観的であることなど、何も知らないし、不愉快なのだ!
「具体的な数値や分かりやすいグラフを元に自分の意見を組み立てるっていうことが客観的であるっていうことです」
なんて簡単な考えで割り切ってしまえる人間の気が知れない!
その具体的な数値が、恣意的に捻じ曲げられた解釈をされていたとしても、それは客観的であるといえるのか?
その分かりやすいグラフが、分かりやすくするために細かい例外を排除して、極度に、不正に単純化されたものであったとしても、それは客観的であるといえるのか?
そもそも同じデータから、別の結論を導くことも可能であるのに、複数存在する解のうちから、恣意的にひとつを選んで人を説得しようとするのが、客観的であると言えるのか?
もう少し疑ってくれ! 疑えないのなら、黙っていてくれ! 連中の頭の悪さは私を不快にさせる。
しかし、そういう人間がこの時代では大多数なのだ!
ふぅ。さてこういう苦痛に満ちた思索を今まで何度も繰り返してきたわけだけど、どうだろう。
おそらくだが、世間一般の基準で言えば、私はかなり客観的にものを考えられる方なのだろう。
学者の人からすると、私の思考や文章は全然なっていないというのは理解している。論理の専門家はもっと、土台をはっきりさせて、ゆっくりゆっくり確かめるように論を展開していくものなのだろう。
だからこそ、世間で言われている意味不明な考え方とは関係なく結論を持っていける。逆に言えば、論理の専門家の意見は世の中の言葉遣いとは完全に隔絶されている。
「客観的」という言葉は本当に危険な言葉で、これを人に対して使うのもはばかられるし、実際にそれが何であるか考えるのも危険だ。
ここまで読んで、私の考えを理解してくれた人なら分かってくれると思う。この「客観的」ということが、あくまで全部「単なる一形式」「見せかけの弁論術」でしかないのなら、すごく簡単なことなのだけれど、そうとも言い切れないのが実情なのだ。
もっと分割して、複雑に考えないといけない。
「客観的に見せかける」ことはすごく簡単だが「実際に客観的である」「厳密に客観的に書く」等のことは、人間にはあまりにも難しい。不可能であるとさえ私には思える。少なくとも私の客観性は「私が完全に客観的であったことなど、一度もない」と私に対して言っている。それどころか「完全に客観的な人間であることなど、その人間がどんな人間であっても不可能である」という答えさえ導いてくる。
構造的に考えるならば……「主観的な人間の中に、客観的な部分が含まれており、それを拡大して利用することを、客観的であると呼ぶ」としてもいいけれど、いやしかし、本当にこの「客観的とされる部分」が、真の意味で客観的であると言えるのかと言われると、疑問である。
そもそも「客観的であれば、間違うことはない」という命題が正しいかどうかも考えなくてはならない。
もし客観的であっても間違うことがあるというのならば、そもそも人を説得するために「客観的であること」がどれだけ有効であるかということにも疑問符をつけなくてはならない。
こういう思索は頭が痛くなってくる。複雑に絡み合っているうえで、何ひとつ美しくない。全部人の意見を攻撃するためのつまんないトゲトゲしたこん棒にしかならない。
批判的思考にどれだけの意味があるだろうか。
考えれば考えるほど、人間は自分の知らないものを知っていると勘違いする生き物であることが実感をもってよく分かる。人間は愚かすぎる。だが同時に、人間より賢い存在は、この地上には今のところ存在しないのだ。
その事実がもっと恐ろしい。人間より遥かに賢いはずの神がいないということが、それをいると信じられるほど自分が愚かでないということが、もっと恐ろしい。
これ以上賢くなったら、破滅するしかないのではないかと思うときさえある。
私は自分の愚かさに耐え難い。でもこれは、他の人間と比較した結果の劣等感による苦痛ではなく、もっと本質的な……檻に囚われているかのような苦痛なのだ。
論理的であること。客観的であること。私にはこれがどうにも……自分で自分の作った拷問部屋に入っていくかのような事柄に思えてならない。
あまりにも辛く、苦しい。傷だらけになるのに、宝物なんて何もない。憔悴しきって目がくぼんだ自分がひとりぼっちでそこにいるだけ。
客観的な現実。これに何の意味があるだろう?
結局連中が言ってるのは、「客観」を使って人に自分の意見を押し付けて、得をしてやろうということなのだろうか? それも一面的な見方なのだろうか。
もういい。私はこういう極端な考え方が好きだ。
「客観的に考えて、全ての理屈や主張は反駁可能であり、反駁可能である限り、全面的な信頼を置くことはできない」
「全面的な信頼を置く必要などどこにもなく、結局は趣味と勘で決めるべきなのだ(本質的にすべての人間は趣味と勘でしか選べない?)」
もうそれでいいだろう。私は疲れた。
間違っているのが分かっていても、こういう自分の論理性をまどろませる言葉は、私の役に立つのだ。
趣味と勘。これが私のオアシスだ。
(趣味と勘は、どれだけ間違っていても構わないのだ!)
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