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今話題の、手抜き料理論争

2020年8月現在、『手抜き料理』をめぐり議論が巻き起こっている。

ことの発端は、Twitterに投稿された主婦のつぶやき。晩御飯に冷凍餃子を出したら、夫から「手抜き」と指摘されたという。もう、あちこちで夫に対する批判が殺到してるらしいね。

「手抜きといっていいのは、料理を作った人のみ」「どの立場でそんなことがいえる」とか「感謝の気持ちがない」とか。

その点については、ごもっとも。誰かが自分のために動いてくれるって嬉しいじゃない。同じ状況に置かれたら、僕だって嫌な気持ちになるもの。お茶飲みたいって甘えたら、お茶を入れてくれる奥さんに感謝である。ありがたや。

ちなみに、『家庭において冷凍餃子やポテトサラダは「手抜き」とは思わない。』というのが、僕の考えである。ということだけは述べておく。


さて、僕は料理人である。まずもって僕は、この女性とは決定的に立場が違う。料理は仕事。だから、ここでは「どこからが手抜きなのだ?」という「手抜きの境界線」について、改めて考えてみることにしよう。

まず、うちの店で一番シンプルな料理から見ていこう。献立の中に「地物野菜のせいろ蒸し」というのがある。調理工程だけ書くと、呆れるほどシンプルだ。野菜を切って蒸す。これだけである。

細かいことを言えば「それぞれの野菜の個性や個体差に合わせて、適正なサイズと蒸し時間を調整し、歯ざわり舌触りなどを考慮して野菜を切る。」「食べるときの味のバランスを考えて野菜の組み合わせは、例えば同じ人参でも品種や季節によって臨機応変に整える。」てなもんだ。文字にすると大仰に感じるけど、プロじゃなくても無意識にやってる人は多い。レベルの差はあるだろうけどね。というか無ければ商売にならないのだ。

「野菜を切って蒸す」

これだけの料理だけど、一度もクレームをもらったことも、手抜きと言われたこともない。なんでだろう。調理工程をはじめからやっていれば、それで良いということなんだろうか。

じゃあ、味噌汁はどうだろう。豆腐は買ってきたものだし、味噌もうちで作っているものじゃない。これは手抜き料理ってことになるのかな。でも、言われたことはない。出汁は味の都合で“だしの素”を使うことはないな。少なくとも僕は、顆粒タイプも液体タイプも美味しいと思ったことは一度もないから、それだけの理由で使わない。もし、とんでもなく美味しいものが発明されたら、使うかもしれない。その時は手抜きと言われるのかもね。

さてさて、困ったことになった。ただでさえ曖昧な境界線なのだ。考えるほどにわからなくなってくる。これはとんでもないお題に手を出してしまったかもしれない。

仕出しのお弁当で考えてみよう。そこに、だし巻き卵専門店で買ってきた玉子焼きを入れるというのはどうだ。これなら確実に何も調理しない。せいぜい「買いに行って切る」だけだ。だけど、これまた手抜きと言う人がまだ少ないようだ。実際京都の錦や、東京の築地界隈ではこれが当たり前のお店も多いからである。

いっそのこと、冷凍食品でシュウマイでも買ってきて弁当に入れてみよう。これなら確実に手抜き料理だろう。そうだ、これなら手抜きと言ってもらえるかもしれない。なんだか主旨がずれてきている。

それじゃあ、冷凍食品のシュウマイをミンチにして、別の料理に変えたとしたら、それは一体どう考えたら良いのだろうか。とか、そんなふうに考え出すときりがないけどね。

さて、ここまでの話で、ひとつ気が付いたことがある。それは、すべての判断基準が「お客さんにどう言ってもらえるだろう」になっているということだ。どうやら、今日の答えはその付近にありそうだな。お客様がうちの店に期待していることがあって、その範疇から悪い意味で外れたものは駄目だってことか。

ビジネスだから、お客様の期待を上回ることで成立している。最低でも期待通りでなければならない。

うちの店の場合、ポンズは当然自家製じゃないと認めてはもらえないだろうし、出汁はお店でとるもんだろうと思われている。一方で味噌や醤油は専門店で買うけれど、自家製じゃなくても許されている。この曖昧な境界線が、お客様の期待値なんだろうな。

ところで、冷凍食品などの既に調理済みの「料理」や、「だしの素」などを使わない理由だけど。それは、自家製であるかどうか、にこだわったからじゃないんだよね。味が合わない。ただそれだけ。

料理は、一種類だけ食べるってことはあまりない。会席料理はもちろんだけど、居酒屋に行っても一品しか食べないということも稀だろう。そういった料理の数々は、料理人の感覚でひとつの方向にまとめられている。なんだろう、傾向というかスタイルのようなもの出ちゃうんだよね。そこに、全く違う味のものが一つでも入り込んでくると、特異点として存在自体が浮き出ることになる。それが全てのバランスを崩してしまうことになりかねない。

試しに、こだわりのラーメン屋さんに行って、冷凍食品のチャーシューを乗せてみるとよい。明らかにバランスが崩れていくのを感じるはずだ。ついでに、恐怖に冷や汗が背中を流れるのも感じるはずだが。


そもそも、「献立を考える」とか「全体の味のバランスとる」とか、思考の時点で手間暇がかかっている。食材を育てるのも、買ってくるのも、自分で調理するのも、その思考を実現するための手段に過ぎないのだ。

ただ、たまたま僕らの商売では、「思考を実現するには既製品は物足りない場合が多い」というだけのことである。既製品で実現出来るのであれば、それはそれで成立するんだと思う。それだって、「吟味して選ぶ」という工程は誰だってやる。買い物かごを片手にほっぺに手をあてた姿は、まさにその瞬間でしょ。

家庭料理は料亭じゃないのだ。ベースのものをアレンジすることだって、十分料理と言える。

ポテトサラダを買ってきて、「だいたい美味しいんだけど、ちょっと合わないような気がするんだよね」と思ったら、その“ちょっと”の分だけ手を加えれと良い。卵黄を加えてみるとか、辛子を加えてみるとか、醤油を足すとか、ほんのちょっとしたことで他の料理とのバランスが取れるから。


結論。料理は思考と思いやりから始まる。それを実現するために様々な手段がある。その手段の一部を否定することは手抜き料理とは呼ばない。

ここらが、納得しやすい着地じゃなかろうか。

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