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たんぽぽ~~君に届け



今日も君の顔をみなかった。

夜中に起きて、朝に眠る。君は太陽が嫌いになったのだろうか。

でも人は、いつも昼間の太陽で元気になるわけではない。太陽が眩しすぎて、夜の月明かりが心を透き通らせることもある。昼間でも、眩しいときは下を向けばいい。名もない小さな花が、君を見上げて咲いているから。

体が安全な場所に留まっていても、心は長く厳しい旅の途中の時がある。それは誰にでもある。期間や、回数が違うだけだ。

羽化を待つ、さなぎは中身がどろどろの液体なんだって。混沌のなかで芋虫はすっかり溶けてしまっているけれど、細胞レベルでは、なるべき姿がわかっているんだ。蝶になるようにうまれついている。

人だってきっとそうだと思う。なにかになるようにうまれついている。職業とかそういうことではなくてね。花も、じつは「咲きたいから咲いている」のだと思う。人も、覚えていないかもしれないけど、生まれたくて生まれてきた。

それから。たとえ世界中でひとりぼっちだと感じていても、未来の自分が、かたわらにいることを信じてほしい。大丈夫、と肩を抱いていると。そうして、何年も後になって今の自分を思い出して、今度は過去の自分の肩を抱いてあげてほしい。なぜなら、魂は自由に時間を超えることができるから。嘘みたいだけど、私は結構この方法で乗り越えてきた。

ひとりのこどもの、ささやかなお話を書こうと思う。君とよく似た、でも女の子のお話。やっぱり、思いをなかなか言葉にできない少女のお話。

 

        *

 

「もっとかっぱつに意見を言えるようにしましょう」

少女が小学三年生の時、担任の先生が通信欄に書いた言葉だ。三月生まれの少女は背が小さく、ランドセルが歩いてるみたいだった。

体も小さいが声も小さくて、引っ込み思案だった。参観日でも手をあげない。ほしいものがあってもほしいと言わない。その前に、なにがほしいのかさえ迷って迷って、結局なにも選べない。母親は、(おしゃべりなお姉ちゃんと違ってなに考えているかわからない)とよくこぼしていた。

でも少女は、空想のなかではおしゃべりだった。ただ何かを言おうとすると、たくさんのことばが丸まって、小さな出口にむかっておしくらまんじゅうをするのだ。結局どのことばも選ばれず、少女が何も話せないまま、もうみんな次の話題にうつっている。

「どんなきもち」と聞かれるのが一番苦手だった。うれしい、も、かなしい、も、ぴったりの言葉なんかじゃないから。

 

ある夜、少女の父親はいつもよりお酒を飲んでいた。会社の愚痴を母親にむかって延々と言い続けている。

父親は、工場で鈑金の仕事をしていた。根っからの職人気質の父親は、人の下で働くのが嫌でたまらない。独立したいという気持ちを抑えて生活のために会社員という形で勤めている。母親はたしなめたり「あなたも悪い」と言い出したりでついに口げんかになった。

父親は「馬鹿にしてんのか」とついに母親を平手で殴った。少女の姉は「やめてやめてー」と泣いて止めに入る。少女はだまって居間を出て子供部屋に行った。布団にもぐって息をひそめる。涙だけがあとからあとから流れる。(後になって母親は少女に向かって、「あんたは冷たいよね、お姉ちゃんは泣いて止めたけどあんたは知らんぷりしてすぐに部屋に引っ込んじゃって」と言った)

豆電球だけ点けたままにして、ベッドの下になにか隠れていないか確認する。また布団にもぐりこむと、おばけや幽霊や、怖いものがこないように「バリア」と七回となえる。昔、母親がよく歌ってくれた子守唄を思い出すと、かえってさみしくなった。坊やの子守は、遠くへ行って帰ってこないから。じっとしていると、遠くから夜汽車の音が「たたたん、たたたん、たたたん」と聞こえてきて、やっと少し安心して眠るのだった。

 

翌日、少女が学校から帰ってくると、母親が旅行かばんに洋服をつめこんでいた。

「おかあさん」と少女が言いかけると、母親は
「おかあさんね、もう家、出ていくから」と言って、いろいろなものを詰め込んでいる。少女は動き回る母親のうしろを、ランドセルを背負ったまま何も言わずついて歩く。のどの奥がふさがれて一言も発することができない。ついに母親はかばんを持ってくつをはき、振り返りもせず台所の裏口から出て行った。少女はしばらく台所に立ちつくしていた。「行かないで」と言えたら、出て行かなかったのだろうか。でも、母親がでていきたいのなら、と思ってしまったのだった。

台所の窓から夕陽が射し込んで、少女の後ろに長い影をつくった。少女は、のろのろとランドセルをおろすと、サンダルをはき、外へ出た。
母親はもうどこにもいなかった。少女は歩いて10分ほどの駅に向かって走り始めた。きっと、駅にいる。息を切らして待合室のドアを開けると、何人かが振り返った。でも母親はいなかった。

両親を早くになくし、実家などない母親は、汽車に乗ってどこへいくあてもないはずだった。急にすごく心配になった。線路沿いの道をまたもどる。

農道の周りの田んぼはすべて稲刈りが終わって、はさ掛けされた稲穂が夕陽に照らされている。たくさんの赤とんぼも飛び回って、なにもかもがあかね色に染まっているようだった。

走ったり歩いたり、ぐるぐると家の周囲を回っているうちにもうすっかり日は落ちて、青い闇が冷たい風を運んできた。西の空に一番星が輝いている。何周めかのあと、家に向かっていると、道の反対側から誰かが歩いてきた。街灯の白い光の下に母親が現れた。旅行かばんとスーパーの袋をぶら下げて。そして

「あら、さがしてくれてたの」と言った。

少女はだまって小さくうなずいた。

その時はもう、少女の涙は乾いてしまっていた。

 

しばらくして、学校では「クラス名を考えよう」という学級会があった。クラスの団結を高めるための目標を込めた名前をつける。

たとえば一組は「いつも元気で強いライオンクラス」、二組は「未来に向かうロケットクラス」といったぐあいだ。少女のいる三組でも話し合いが行われた。

すると、いつもクラスの女子の中心にいる平井さんがまっさきに手をあげた。

「私は『ひまわりクラス』がいいと思います」
「その理由はなんですか」と学級委員が聞くと、
「いつも太陽に向かって咲くし大きくて立派だからです」と言った。

みんなはくちぐちに
「おー、いいかも」「それで決まりじゃない?」などと言っている。そのときだった。おずおずと少女が手をあげた。

めったにないことに、学級委員がちょっとびっくりしながら発言をうながすと少女は小さな声で

「『たんぽぽクラス』がいいと思います」と言った。

「その、理由はなんですか」

「……踏まれても、踏まれても、また花が咲くからです」

みんなは「えー、地味だし」「ひまわりのほうがいい」と言って、結局圧倒的多数で『ひまわりクラス』になった。

でも、少女はぜんぜん落ち込んでいなかった。

100パーセントではないけれど、「ぴったりのことば」のような気がしたからかもしれない。そして、それを口に出せたことがうれしかったのかもしれない。

「踏まれても、踏まれても、咲いていたい」って。

 

      *

 

これでこの小さなお話はおしまい。

少女は大人になって、いまだに「ぴったりのことば」を探している。今は自分自身のためだけでなく、大切な君に届くかもしれないことばを。なかなか難しいことはわかっている。けれど、いつか、きっと。今、未来の君がそのドアを開けることを想像している。そして朝日の中で「おはよう」と言うんだ。



さあ、もうすぐ夜が明ける。


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