後悔は「するもの」ではなく「してしまうもの」

よく「反省はするけど後悔はしない」と言う人いるけど、後悔は「してしまうもの」だと思うんだ。

本当は悔やんで身をよじるほど苦しいのに、反省なんて軽い言葉でおさまる気持ちなんかじゃない。

後悔すべき出来事があっても後悔しない人は怖い。

反省して次に行けばいいなんて偽ポジティブ嘘ポジティブで蓋をして、悔いに向き合わず「なかったこと」にできるなら、幸せにも本当に後悔するようなことに出会ってないのかもしれない。

言ってしまったひどい一言、失敗、裏切り。それに対する深い後悔があるからこそ反省につながる。

後悔はつらいし苦しい。誰もが「してしまうもの」なんだからそこは仕方がない。

大事なのは、私は「失敗そのもの」でも、「裏切りそのもの」でも、「後悔そのもの」でもない。

その暗く固い気持ちが私そのものではない。

その暗く固いものの傍らによりそい、涙を流す私、光を求める私がいて、注意深く見渡せば、差しのべられている手もあるし、人の幸せを願う私もいる。決して暗く固くどろどろしているものだけではない。

後悔してしまう。悩んでしまう。生きてるんだから避けられないけど、悩みに後悔に同一化しない。

「あなたは一人じゃない」っていうのは、もちろん心配してくれる他人のこともあるけど、自分自身もたくさんいて、100人自分がいるとして、たとえ一人の自分がもうダメだと思っても、九十九人の自分は助けようとするし、九十九人がダメだと思っても、たとえたった一人になっても崖っぷちで赤い顔して力の限り踏ん張る自分が必ずいるということ。

そしてそれを俯瞰して見ている(意識無意識に関わらず)自分もいる。

そして蜘蛛の糸のような、きらきら光る細い細い糸を垂らしている。小さく囁きながら。


だいじょうぶ、だいじょうぶ、と。





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