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書評 遥かに届くきみの聲 大橋 崇行  朗読のイメージが激変した。作品の解釈が大切なのである。

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朗読のイメージは、子供に絵本を読み聞かせる。
読書を広げる行為。
そんな感じだった。感情豊かに気持ちを込めて・・・
それでいいと思っていた。

しかし、本書を読むと、それだけではないとわかる。
大切なのは作品の解釈で、それによって読みはまったく意味が違ってくるのだ。

冒頭とラスト近くで宮沢賢治の作品を朗読し、その解釈について述べている。
この部分が好きだ。

宮沢賢治には、盟友と言っても良い妹のとし子がいる。
このとし子が死にかけている。そんな時、賢治は雪を彼女に食べさせるのだ。
この時のとし子のリアクションの解釈がここでは問題になる。
死ぬのが悲しい。それが教科書的な解釈である。この場合、トーンは暗くなる。死に対する恐怖がなくてはならない。だが、これを別の解釈にすると、死に際して妹のとし子は兄を心配し空元気を見せる。励ます。そういう風な解釈になると読み方が違ってくる。


とし子の死。賢治の悲しみ。
けれども僕は、考えた。
とし子が本当に自分の死を・・・涙混じりにこの言葉を発したのだろうか。
・・・自分の死を悲しんでいる賢治を元気づけるために、子供のときに一緒に雪を食べた遊びをもう一度したのではなかったのか。
・・・僕がこの一言に込めたのは、とし子の、賢治への感謝の想いだった。

言いたい事は、朗読にとって大切なのは解釈なのだったということだ。
本書の魅力はメインの物語の優しさに包まれた世界ではなく
この読書の解釈。色んな作品に対する洞察にあると思う。
これは本好きの僕の独特な読み方であり
たぶん、他の人には通じないのかもしれない。
もしかすると、こんなの楽しくないと思われるかもしれない。
でも、僕には、とても楽しくて、とても有意義な読書の時間だった。

もう1つ例をあげる。
梶井基次郎の「檸檬」を中二病という解釈する読み手に
なるほど・・・と同意しつつも、後に出てくる
この自意識を、自分が他者からどういう風に見られているかという意識ととられる解釈に、また、なるほど・・・と思うのだった。

梨花による「檸檬」の解釈。それは、この小説を、主人公の「私」が自意識過剰な青年期を卒業する物語だと考えようとするものだった。

こんな風に部員たちが「檸檬」の解釈について議論する。中二病の自意識過剰なのか、それを卒業した場面なのか。こういう場面がおもしろいし、その解釈の仕方がおもしろい。梶井の「檸檬」を知らない人には何のことやらだろうが・・・。

「檸檬」みたいな古い小説の解釈って、基本的には2つのやり方があるんだよ。
・・・小説の書かれた時代に即して、そのときにどういう価値観で書かれたのかを考える方法。
・・・「檸檬」に流れる中二病的な心境を、他人からどう見られるかという意味での自意識として考える・・・
・・・もう1つの見方は、今の価値観から古典的な作品を見直すこと。

まるで、古典文学の大学の講義を聞いているようであった。
さらに、次の言葉が僕に刺さった。

古典が読まれるとすれば、読み方がずっと更新され続けて行かないといけないことになる。


これです。古典を古典のまま昔ながらの読みで解釈すると、意味不明になりがちで無価値になる可能性があるが、現在的な価値観をそこに入れて解釈するとルネッサンスならぬ再生文学みたいな枠組みで捉えることができて楽しいと僕は受け取った。

とにかく、朗読という新しい世界を知れて楽しかった。
作品の解釈の話しが、とくに楽しかった。
それだけで、僕には満足なのでした。
いい本です。

2020 11/15




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