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「捨てる」ことで「行動力」は得られるけど、「で?」

行動力とは、いい換えれば「浮遊力」である。

ふわふわしてる状態にいる人が、考えたことを即実行に移すことができ、「行動力がある」と表現される。

では、ふわふわできない人にのしかかる「重力」の正体とは、なんだろうか。

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大事なもの、捨てちゃうか


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かつて、ぼくは「大事なもの」にあふれていた。

友だち、恋びと、家ぞくなどの「人間関係」、おうちやファッション、インテリアなどの「物」、あるいは、世間体や好感度などの「目に見えないモノ」。

それらは、アイデンティティとして大いに役立っていたし、囲まれることで安心を得ていた。おかげで、なにも考えずとも、幸せにぼーっと生きて来れた。

だけど、いつからか、次第になんだか「ニセモノ」に見えるようになっていった。「実体」がないというか、違和感を覚え始めたのだ。

芽生えた懐疑心は、確かめずにはいられない。ニセモノを取り払うことで、図らずとも「行動力」を得ていった。

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個性、捨てる

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まず目をつけたのは「個性」。

人にとって最も尊重するべきことは「個性」なのだと信じていた。
だけど、実際には「個性」などは「無い」のだと思うようになった。いや、「有る」けど「無い」のだ

確かに、同じ人は2人としていないし、誰もがさまざまに異なるわけだけど、それは、言うなればトランプの表面においてであって、裏を返してしまえば、誰もが同じ柄をしている。

人間には普遍的な性質があり、それは「ただ流れていく」ということ。人は皆、置かれた環境にもまれながら、抗いようのない運命にただ翻弄されていく。人生とは、自然の「川」そのものだ。決して川を眺めているわけでも、ましてや「流す」立場でもないのだと考えるようになってからは、「個性」には見切りをつけた。

「個性」は無い。奇抜なファッションに身を包み、「個性的アピール」をしたところで、「個性的っぽく」なるだけで、ひっくり返せば「無個性コンプレックス」があらわになる。

そうして、ライフスタイルに散りばめられた、「個性」を演出するあらゆる「アクセサリー」を点検しては、捨て去った。

本当の「個性」は、それでも残って「しまう」ものだ。

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人間関係、捨てる

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「すべての悩みは人間関係に起因する」

的なアドラーの言葉はたしかに的を得ていて、人に期待をしなくなってからは悩むことがなくなった。

「人には個性が宿っている」という考えを無くすことで、「この人ならきっと」のような淡い期待を見なくてすむ。

「人は流れるままに生きるだけ」であり、「流れ」はおおよそ「楽」と「快楽」へ向かう。
そのため、相手が自分にとって都合のいい行動を取らない方が「自然」なのだ。

誰かを「特別な人」としているうちは、その人の言葉に引っ張られて浮遊できない。

特別なのはその人ではなく、その「関係性」であり、関係性は自らの意思でいつでも自由に決めることができる。

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物、捨てる

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「物」に対する執着を捨てた。

物の価値は「役割」であって、「物」自体はその器でしかない。

その「役割」が本当に必要なのかどうか、確かめる必要がある。

物を持つと、管理する責任が生じる。「管理する」というのは、たぶん、多くの人が思っている以上に脳に負担をかける。

物を「持たない」のではなく、物に「執着しない」意識だ。物を一時的に「預かり」、用がなくなればリリースする。「所有」というと、半永久的なお付き合いな予感がしてしまうため、「預かり」ととらえる。

物を減らした分だけ、「重力」は弱まる。

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目にみえないモノ、捨てる

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「人の眼に映る自分」を大切にしていた。

へんなことをすれば、「へんな人」になるが、大人しくしていれば、「大人しい人」でいれる。そう思っていた。

だけど、

「人の眼に映る自分」は、ぼくを見る人の価値観に依存する。大人しくしていれば正解なんてことはなく、「つまらないやつ」だと思う人もいれば、「まじめな人」と思う人もいる。

人は、他人を「知っている情報」以外のすべてを「偏見」によって補足している。

要するに、「人の眼に映る自分」と「自分」は、いついかなる時も完全なる別人であり、重要なのは「自分」の方だと気が付いたのだ。

「人の眼に映る自分」は「他人」なので、そこまで気にする必要がなくなり、「プライド」という強大な重力から解放されていった。

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で?

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こうして、見事「浮遊」しだしたぼくは、思い立ったその日に旅にでたりするようになった。

「…………で?」

っていう話である。

「行動力」、そんなに捨てて、ようやくですかと、そうは思いませんでしたか?

しかも、「行動力」なんてのは致死率を高めるばかりで、ぼくが今生存しているのも割と奇跡的だったりする。

「大事なもの」は、確かに重力となっていたが、「重力」は危険から身を守ってくれていたんだね。

行動力とは、いい換えれば「浮遊力」である。

かっこよく言っているが、何にもないだけだ。

つまり、ぼくは『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』みたいに、本来あるべき人生とは逆行していたのだ。

本来は「行動」の結果、獲得していくべきものを、最初から持っていたから、「行動」する必要がなかった。

こういう謎の現象が、豊かな国では起こってしまうのだな。

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まとめ

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とはいえ、後悔しているかと言えば、全くそんなことはない。どんなに恵まれていようと、その恩恵が感じられないのであれば、あるのは違和感ばかりで、生きている心地がしないからだ。

それに「最初から無い」のと、「あったけど無くした」とでは、天と地ほどの差がある。「有ってもその程度か」とわかっているから、「無い」ことに不満が生まれない。

ぼくの優位性は、この浮遊力を「獲得」以外の、「無駄」に浪費できるところにあるなぁと客観視している。

もしもあなたが「行動力がない」と思うのであれば、すでに十分に持っていて、「行動する必要がない」可能性を考慮してみるのも、いいのではないかと思う。

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