見出し画像

デジタル世界における唯一の希望、「スピリチュアル」について。

前回「捨てる」という話をしたのだけど、実のところ、わざわざしなくても、世の中はデジタル化によって物が消えつつある。

たとえば、ぼくは現在デジタル一眼レフカメラを使用しているが、本音をいうと、フィルムカメラに惹かれている。

それでもフィルムにしないのは、あまりに「コスト」がかかり過ぎるからだ。

ぼくが愛用していた『NATURA CLLASSICA』というコンパクトフィルムカメラは、超絶可愛い。

が、すでに生産が終了していて、数年前には新品2万円程で買えたものが、中古で8万円前後で売られている。加えて都度フィルムを購入し、現像に出すことを考えると、相当な費用がかかる。

需要が減っているのだから、当然なのだけど、これは「カメラ」に限った話ではないだろう。

デジタル化の勢いは、パンデミックによってさらに加速した。

紙の本にはまだまだ根強い愛用者がいるが、残念ながら時間の問題かもしれない。環境問題への世界的な動きと、電子書籍は、やはり物流、販売、資源コストを省き、低価格が実現できるからだ。(デジタルと紙、どちらがエコであるかは議論の余地があるだろうが、表面的には電子の方が「エコっぽい」為)

「価格設定」によって、ぼくたち庶民はいとも容易く選択「させられ」て、やがて慣れていく。そして最終的には同化し、「人間のデジタル化」によって世界は完成する。()

————————————————————— 

「スピリチュアル」という希望

—————————————————————

とはいえ、止められない流れを憂いていても仕方がない。ぼくたちが生きた物質世界は破壊され尽くされ、画一的な新世界はやってくるかもしれない。

そのような「つまらない」世界において、ぼくたちの希望はなんだろう。

ぼくは「スピリチュアル」にそれを見ている。

「スピリチュアル」というワード、どこか胡散を臭わすのはなぜだろう。なんか、「スピリチュアル」を語る人、だいたい目が笑ってない気がするのは、哀しみの果てにたどり着くことが多い為だろうか。それとも、偏見だろうか。

ここでは「すぴりちゅある」と記そうか。ほら、柔らかくなった。ひらがなのまほうはすごいね。

「すぴりちゅある」とは、精神的、霊的、宗教的ということらしいのだが、この並びをみて言霊ことだまが連想できる。

ぼくは本屋が好きで、よくふらふら見て周るのだけど、「大丈夫、なんとかなるよ」的なタイトルの量が半端じゃない。読まなくても、謎に四方八方から励まされてしまう。

日本はもう「そういう」段階なんだなぁと感じる。これはいい傾向だ。いつまでも「生産性爆上げする方法!」「お金持ちになる考え方!」とか言ってる方が心配だ。

この国はもう「獲得した」んだ。安全も、豊かさも。すると、次の問題が生じるわけだ。

「生きる意味ってなに?」

そうなる。

生きることを目的としてきたのに、それが「あたりまえ」になり、さて、どうしたらいいのか分からないでいる。

そこに突如現れる「救いたいマン」たちは、拾った「言霊」風味の安いエサを投げる。食いついたエサはおいしいが、さらに欲するようになっていくのだ。

精神のエサがあるだけまだマシといえるが、エサを食べなくても済む状態こそ「豊か」な状態ではないだろうか。

自身の心を豊かにし、かつて人びとが大切にしていた「すぴりちゅありてぃ」を取り戻すことが、唯一の希望なのだ。それにしても、「すぴりちゅありてぃ」、字面がかわい過ぎるな。

—————————————————————

言霊にみる「すびりちゅありてぃ」

—————————————————————

間違えて「ぴ」を「び」と打ってしまったが、一気に老けたな。タピオカの人気の秘密は、やはり「ピ」だったか。「タビオカ」は絶対に流行らないだろうな。

しかし長いので「すぴ」にしよう。

では、「すぴる」には具体的にどうしたらいいのだろう。

先述の通り、「言霊」を使いこなせばいいのだ。

言霊とは、古代に信じられていた、「言葉には霊魂が宿っていて、発する言葉通りの事象がもたされる」というものだ。

ほう、さすが古代人の方が真理的だったりしますね。

たしかに、「しあわせ」ってなにかっていうと、「しあわせって感じること」なんですよね。「不幸だ」と嘆いている人は、客観的にどんなに恵まれていようと事実「不幸」なんだ。

言葉を介して「感じる」こと。

心ない言葉を耳にすることもあるだろうけど、問題ない。

「感じる」とは主観であり、本人に絶対的な支配権がある。

日々、出会う数多くの言葉たちに、疲弊してしまわないように、理性的に処理する言葉と、感情的に味わう言葉を区別するようにする。

暴力的で下品な言葉は、必ず「言葉を制御できていない人」、あるいは「言葉を制御できない状態にある人」によるものなので、言霊は宿らない。

暴言を言われてダメージを受けるのは、理解が及んでいないからだ。暴言は例外なく制御できていないので本来なら「当たらない」はずなのだ。

それでも「当たる」のは、理解不足によって、すべてを吸い込み、感じてしまうから。

言葉を制御できるだけのゆとりと思慮深さをもって、「しあわせ」を感じる言葉を多用しよう。

—————————————————————

物語にみる「すぴ」

—————————————————————

人々は、民族ごとに神話を共有する。その多くは自然や動物にまつわる物語だ。

「物語」こそが、「言霊」の真骨頂であり、ぼくたちに必要なものではないだろうか。

「言霊」を単体で感じるのではなく、繋ぎ合わせることによって、大きな流れを見通す。

「なぜ学ぶのか」

その問いの答えは、あらゆる事象と、間にある「繋がり」をより鮮明にみるためだ。

先日、ハンガリー人と雑談した時に、彼が日本について語ったのが、

「水族館みたいだ。」

だった。

真意は問わなかったけど、

「(世界は海のように繋がっていて、隣国での出来事による影響を直接的にうけるけど、日本は『孤立』していて、よその国でなにが起きようが他人事である様子が、『きれいに管理された狭い水槽の中で規則的に泳いでいる』ようで、まるで)水族館みたいだ。」

とぼくは受け取った。

確かにその通りだ。日本人の多くはアニメをみたり、ゲームをして過ごす。それらには、わかりやすく、ダイナミックな「物語」が組み込まれていて、子どもから大人まで夢中になって取り組んでいる。

比べてゲームの外で、世界中で起こっている「物語」は、とてつもなく複雑で、その上ぼくたちにとって不都合で、見たくもない現実ばかりだ。

そりゃあ、どうせ「物語」をみるなら、「綺麗」な方を見たくもなるってものだ。

だけれど、たとえそれが綺麗だろうが、汚かろうが、ぼくたちが登場している「物語」から目を逸らし、「生きる意味」を問うなど、ラーメンを食べながら太る理由を探しているようなものだ。

ぼくたちは一度の人生で、多くの「物語」に登場している。

「自分の人生」「一族」「性別」「発展」「地域」「日本」「地球」「人類」「生命」「宇宙」

それらすべてにおいて、すべての人はかけがえのない存在であることを「感じる」こと。

そして、かつて同義語であった「生きること」と「しあわせ」が再び重ね合わさる時、「すぴ」を深めることができるのだ。

なぜ学ぶのか
なぜ生きるのか
人間とはなにか

すべての「問い」は、繋がっている。

私たちの生き方には2通りしかない。奇跡など全く起こらないかのように生きるか、全てが奇跡であるかのように生きるか 
byアインシュタイン

この記事が参加している募集

最近の学び

学問への愛を語ろう

¥1000につき1時間ぼくを労働から解放させる魔法です。