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『あっちのほうが面白かったのに…』そんなの取っ払って全部面白かった。

先日のM-1グランプリが最高すぎて、まだ余韻にひったってる。

今年、めちゃくちゃ面白くなかったですか??(ね???面白かったよね????)


もう、芸人さんって素晴らしいなぁ…と心の底から思った。

気づいたら日常を忘れて笑っていて、笑うって幸せだなぁ…と心底思ったし、M-1に出場した方、そしてさらに決勝まで残っている方々の強さと素敵さに感動した。


Twitterとか見てると、この評価はどうなのか?みたいなされていることもあるんだけど、個人的に好き嫌いはあるけど、点数による優劣って難しい。

(ちなみに、私は、かまいたちの展開にドキドキして死ぬほど笑った…!!!という個人的な好み。論理展開に知性が滲み出てて好き…!!!)

決勝なんて三者三様で、もはや漫才というジャンルは同じだけど、細かく分けて別な表現における優劣ってなんやあああああっていう謎が自分の中に生まれる。

くじで決まる順番、各々の実力、その日にいるお客さん、審査員、その人の知名度、語られているストーリー、そして、運だったり。

あらゆる要素が結果に繋がるんだなぁ…と見ておりました。


表現は何で審査されるのか?と考えたけど、これには答えはもはやない気がする。

学生時代にストリートダンスを嗜んでおりましたので、ダンスバトルによく出ていたのを思い出し彷彿とするような感じがした。

即興の数十秒で勝敗が決まる世界で、ぺーぺーの自分がその数十秒で自分を出し切ることができたらプロの方に勝つこともあるし、『絶対に私が勝っとったやろう。』なんて思いながら惨敗したことも本当にたくさんあった。

審査員の人に聞きに行くと、彼らの中に美学があって、そこに勝敗の基準がある理解はできるものの、同意はできずにやっぱり悔しい思いはしてきたなぁ…なんてことを思い出したりもした。そして、どんなに上手くなったとしても、表現って確実性なんて手に入らないとわかった。


結果に繋がらないと、つい、自分のパフォーマンスがよくなかいんじゃないか、とかとか、誰かに否定されたような気がして心配になったり。

このままでいいのかわからなくなり、そもそも自分がどうしていきたいのかという基準がどこかに行ってしまいそうになる。

そんなことを思い出し、人が審査員であればあるほど、正確性なんてないし、とはいえ勝敗の決まるとてつもない世界やな…と思い、尊敬しかない。


否定される経験があるからこそ、何度も何度も『自分は何を美しいとするのか?』と自分の中の基準を振り返り、より明確にできたのかもしれないなぁと、今では感謝している。

自分の好き。自分の嫌い。自分の美しい。自分の美しくない。などなど

正解がない世界だからこそ、これからも、何度も何度も拾っては自分に問いかけ、いらないものは捨て、ということを繰り返して行くんだろうな…と思ったし、これからも磨いて行きたい。(折り合いがつかないときには、あたおかがマジックワードになってくる。)

絶対的な価値がないのだからこそ、自分の中の『価値』は変わって行くものなのかもしれないなぁ…なんてことも頭にいれながら。




最後に。

巨人師匠の『彼らの漫才もっと面白いです。これだけは本当に。』

塙さんの『ギャロップとスーマラは一生漫才をやっていく仲間だと思ってるけど…』

松本さんの『後半はみんながチームプレみたいな感じで漫才を盛り上げてくれて、俺はおっさんやから泣きそうになった』

なんて言葉。

もう、なんでしょう。

愛に溢れて素敵すぎるやろう…。


終わった後の千鳥の『わしら、最下位2回とっとるんやぞ。つよなるよー。』なんて自虐や、『最高。』『ほんまによかったよな。』などの賞賛コメント…。愛溢れすぎて、そういった関係性が羨ましくもあった。


あっさい、表現になるけど、大切なことを大切にしている世界って、本当に美しいって思った。

もう、本当に。

は〜幸せやったわ。余韻に浸りたいけど、そろそろ戻ろう。笑


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