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Return to Sender vol.4 | Valo

早いもので今月も月末となりましたが、今週木曜日(10/1)は中秋の名月。石本藤雄さんによる「Valo(ヴァロ)」という、テキスタイルデザインから、について、について、はたまた人生観について、今月も面白くミズモトさんと黒川がコメントしています。

Return to Sender、今回で4回目となりましたが、なかなかよい連載企画なのでは?と改めて感じます。では、どうぞ。↓↓↓


Valo

Text by Akira Mizumoto


アメリカの若き天才サキソフォニスト、カマシ・ワシントンが、ジョン・コルトレーンのサックスを〈太陽を直視したような音〉と表現しているのを聞いて、思わず膝を打ったことがあるのですが、太陽の光は本当に強烈で、たった一秒直視しただけでも、網膜の組織を破壊してしまいます。

しかしぼくたちは光なくして何も見ることができません。

厳密に言えば、光源から放たれた光が何かに反射し、その反射した光をぼくたちが網膜でキャッチして認識しているわけです。物体を見る/世界を見る/誰かを見るということは、物体そのものを直視しているつもりでも、反射した光をただイメージとして捉えているのにすぎません。*

* むしろ直接的に物体を見る……という意味において視覚よりも触覚、つまり〈触る〉という行為のほうがより近いのかも。

人間が見ることのできる最も巨大な光の反射はです。

一日という言葉が示すように、日の長さは太陽の動きが決めますが、ひと月という言葉が示すように、月の長さは月の満ち欠けをもとに決められています。

月が人間の生活サイクルの基礎となっているいっぽうで、月の引力が人体に影響を及ぼして、たとえば満月の夜に交通事故や殺人が増えるとか、睡眠不足になる、性交すると妊娠の可能性が高くなる───などさまざまな俗説を生むことになっているけれど、実験や研究の結果、因果関係がはっきり証明された例はないようです。

しかしながら、月はやはり人間にとって身近な自然であり、自分たちの心情を反射してくれる存在です。月は世界のどこからでも見え、また月は世界を、ぼくたちのすべてを見通すかのような存在でもあります。

日本文化の中から例を挙げれば、百人一首の中には月を詠んだ歌が12首も含まれていますし、日本最古のSF小説と言われている「竹取物語」も、やはり月の存在が重要な役回りを果たしています。また、古今東西に作られてきた〈月〉をテーマにした歌を挙げるなら、noteのサーバがオーバーロードするほど大量のタイトルを並べることができるでしょう。

歌といえば、あの大瀧詠一さんがはっぴいえんどという自身のバンドで〈日本語のロックとはいかなるものか〉というテーマに向き合っていた頃のことをふりかえって、こんなことを言っています。

〈自然を歌う、というのもひとつの日本のロックなのではないかと僕なりに考えた。(中略)芭蕉は風景や自然を語ることによって、個人の心情をたくしたわけで、そこには個人の想いがある。だけど、それを説明しちゃあ野暮になるので、あえて言わないし。まあ、意味性を捉えようと思えば面白く捉えられるんだけどね。〉

松尾芭蕉が詠んだ月の歌にこんな一句があります。

名月や池をめぐりて夜もすがら

中秋の名月を眺めながら、池のまわりをグルグル歩いていたら、夜が明けちゃったよ、という歌です。*

* 池の表面に月が映っていて、ゆっくりと動いている様子を芭蕉が一晩中眺めていた───とより風流に解釈する人もいるそうですが、芭蕉がグルグル廻っているほうが断然面白いと思います。ちなみにこの歌の「池」は、例の蛙(かわず)が飛び込んだのと同じ、芭蕉庵(今の東京都文京区関口にある)にあった古池です。

石本さんの作品「Valo」を見ると、芭蕉のこの句のことをつい思い出してしまいました。

「Valo」は石本さんがボールの表面に反射した光と陰影をスケッチして図案化したものだ、と黒川さんに教えてもらいましたが、見ようによっては月齢図みたいです。

太陽と地球と月の位置関係によって偶然産み出される”図案”が月齢ですが、人間はそこにいろんな想い───特にセンチメントを投影してきました

芭蕉の世界も同様で、その風景を見たときの自分の心情うんぬんではなく、そのありさまが虚飾なく言葉に変換されたことで、さまざまな解釈の余地を与えてくれています。

石本さんのテキスタイルも風景や自然を、まるで俳句のように描きとることによって、いくらでも自由に、おもしろく意味づけする楽しさに満ちあふれています

そういえば、石本さんが長年暮らしたフィンランドも湖もたくさんあって、水辺もたいへん多い国ですね。そして日本に比べてとても夜が長いです。もちろんそのあいだは月ではなく、太陽がしつこく顔を覗かせているわけですが───石本さんも湖のまわりを夜通しグルグル歩いたりしたことがあるのかなあ?


あとがき

Text by Eisaku Kurokawa (Mustakivi)

ミズモトさんとの連載企画・第四弾で取り上げたのは、1998年にマリメッコからリリースされたValo(ヴァロ / 和訳:光)でした。確認できているカラーは5種。

図2

ボール柄のサイズ違いとしてPallo(パロ / 和訳:ボール)も同年に発売されています。

図3


ミズモトさんの解説にもありますように、石本さんがボールの表面に反射した光と陰影をもとに制作されたシリーズで、以前に展示されていた原画(スケッチ)について、石本さんにインタビューした際のメモには以下のように記されていました。

「まず、カラーコピー(当時はメーカー名のゼロックスとして呼んでいた)で、丸い形のスケッチを様々な色でカラーコピーし、丸を塗りつぶしていった。見る角度によって違うボールの陰影を表現した。」

図4


現代ならパソコン上で処理すると思いますが、当時は技術的にもカラーコピー機を駆使しながら制作されることが多かったようです。部分的にアナログ的な要素を残すことによって、見る人が、意識・無意識の両方で感じられる「情報量」がぐっと高まっているとも感じられます。

9月5日、石本さんが無事に日本に帰国されました。コロナ禍で延期になりながらも、無事に帰国され、待機期間も無事に終えられたので何よりです。

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様々な道を自分で切り拓いてきた石本藤雄さん。その歩みについて、この連載"Return to sender"でご紹介しているように、石本さんの様々なテキスタイルデザインや陶芸作品と共にお伝えしていければと思います。

読んでくださる方に、少しでも明るい気付きを得てもらえるような連載になることを目指し、続けていければと思っています。

今月は最後に私からこの時期(中秋の名月)にお勧めしたい一曲を。
Maurice Font / Everything happens to me. (2020)

直訳すれば、“私にはどんなことも起こる“、ですが、歌詞からは、「いいことも悪いことも起こるのが私の人生」という意味のタイトルではないでしょうか。Maurice Fontによるピアノの音色は、光と影、そして希望を感じさせ、どこか石本さんの帰国を重ねてしまう心境です。

ではまた来月。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

黒川


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