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Return to Sender vol.3 | Taiga

第三弾となりました「Return to Sender」

今月取り上げる石本藤雄さんよるテキスタイル・デザインは、《タイガ》(Taiga /草原)です。
1978年にリリースされた、石本さんの代表作ともいえるデザインですね。

日本語名は「草原」なので、ミズモトアキラさんに草原をテーマに執筆いただきました。あとがきは、デザインについて黒川が解説をしています。

見る人によって感じ方が違うのも石本さんのデザインの魅力です。草原とみるか、出穂前の稲とみるか、針葉樹林とみるか、、、今月の二人のテキストを読みながら、感じてみて頂ければと思います。どうぞ!


TAIGA

Text by Akira Mizumoto

石本さんの1978年の作品「TAIGA」を今月のテーマに───と発注が届いたとき、部屋の中に監視カメラが仕掛けられたのかと、思わず探してしまいました。

というのも、おそろしいほどタイムリーなことに、たまたま今、読み進めていた本が『「馬」が動かした日本史』(蒲池明宏・著/文春新書)だったからです。

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物資や人を迅速に運ぶこと、また、農作業などの労働を支え、ときに戦(いくさ)の道具として、かつて馬は人間にもっとも有益で身近な動物でした。

馬の代わりにさまざまな機械が発達して、人間たちのそばから次第に遠ざかっていき、競馬や乗馬が趣味の人か、あるいは東南アジアや南米などの発展途上国を除いて、馬と接する機会はほぼ無くなってしまいました。

しかしながら、馬の助け無しに人が生きられない時代は、ユーラシア大陸から馬が伝わってきた5世紀前後から20世紀前半まで1,500年以上もあったのです。

そして、馬の生育に欠かせない環境こそが草原(TAIGA)です。

草原というと、モンゴルやアメリカ大陸の大草原の印象が強いかもしれないが、典型的な日本の草原は、エノコログサ(ネコジャラシ)、ススキなどの生えた原野である。私たちにとって身近な原っぱ、草原(くさはら)の風景だが、これらの雑草が馬にとっては格好のエサとなった。

『「馬」が動かした日本史』より

現在、日本国内で草原が占める割合はわずか3%ほどですが、縄文時代には国土の3割が草原だったと言われています。

日本の草原は活発な火山活動の産物でした。噴火によって火砕流や溶岩が流れ出し、地表の植物が死滅します。それらが固まったあと、土壌がふたたび薄く堆積しますが、水分や栄養を蓄えにくいため、大きな樹木が成長するための条件が整いません。したがって、そこに生えるのは必然的に背の低い草ばかり、ということになります。

また、縄文時代の前期にはすでに焼畑農業の知恵がありました。収穫量の落ちた畑に火を放って焼き、別の場所に移って新しい畑を作り、数十年後にふたたび元の場所に戻って、畑を作る。その長いサイクルのあいだ、焼かれて放置された畑に雑草が生えて草原になったのです。

弥生時代になって、日本全体に稲作が広まったあとも、そうした草原は土壌の性質から田んぼに転用することが難しく、草原のまま放置されました。使いみちの難しかった草原を効率よく活用する方法こそが、馬のための牧(まき)だったのです。

育てられた馬は国内で利用するだけでなく、朝鮮や中国へ輸出して、古代の日本人たちは大きな富をなしたという歴史があり、有力な馬産地───たとえば関西や九州南部、千葉県周辺には大きな古墳が残されています。

じつは今、小学校で教えられている日本の歴史は、米作りや金属製品の使用をはじめた弥生時代から始まって、古墳、飛鳥……現代へと数百年単位で変遷するというフレームになっているのだそうです。ゆとり教育と揶揄された20年前の教科書にいたっては、弥生以前の───石器時代や縄文時代は教科書から消されてさえいました。*1

*1 1998年(平成10年)に小学校の学習指導要領が改訂され、旧石器時代と縄文時代の記述は教科書から消滅していました。2008年度(平成20年)にようやく復活したのですが、現在も軽く触れられているのみ、だそうです。縄文は学ぶ必要のない野蛮で原始的な時代だということなんでしょうか?

草原の国で暮らしてきた日本人という軸でふりかえれば、当然、その歴史の出発点は焼き畑によって草原を作り出していた縄文時代ということになるわけです。

教育現場での不当な扱いに反して、縄文文化はここ数年、大きな注目を集めてきました。2018年の夏、上野の東京国立博物館で「縄文」展が開催され、数十万人の観客が押し寄せました(ぼくもその観客のひとりです)。

縄文式の土器、土偶のデザインの神秘性、食料や資源などを必要に足るものだけ採って暮らす生き方。また、船を建造して、遠い土地と交易も行うタフさをも同時に持ち合わせていた縄文人。

もちろんこれらはすべて、文字も無かった1万5千年前の話ですし、詳細な資料が残っているわけではないので、本当のところはどうだったのか誰も知りません。タイムマシンでも発明されないかぎり、彼らの実態は想像するしかないのですが、そのミステリアスさも魅力です。

そして、以前から石本さんの作品にも縄文的な美を感じてきました。土器の表面につけられた縄目文様の弾けるような躍動感や、手のぬくもりが伝わるようなウネリ───草原の中で暮らしながら、古代の日本人が何万年も前から見出してきた独創的な美のかたちが、石本さんのテキスタイルや陶作品のなかには潜んでいる気がするのです。

縄文などの原始的な美に石本さんがどういう関心を持っていらっしゃるか(あるいは持ってらっしゃらないか)、いずれお会いしたときにお話を伺ってみたいな、と思っています。


あとがき

Text by Eisaku Kurokawa (MUSTAKIVI)

ミズモトさんとの連載企画・第三弾は、
石本さんの代表的なテキスタイル・デザイン、《タイガ》(Taiga /草原)でした。

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42年も前の1978年8月の太陽が照りつける中で、風に稲穂がなびく、故郷の様子を思い浮かべて、石本さんが制作されたものです。

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マリメッコのテキスタイルには昔から、象徴的な名前があり、時には遊び心に溢れた名前も多く見かけられます。その名を知る手がかりとなるマリメッコの布の“耳”は、とても興味深い情報源です。

布地の種類、柄の名前、デザイナー名、メーカー名、“デザインされた年”がプリントされており、お客様にも新柄かどうかがすぐわかります。一方、年代の古さは良いデザインの息の長さを物語っています。(昔は発売年だったようですが、コピー品を防ぐためにもデザイン年に変更されたという理由もあるとか)

石本さんがデザインしたファブリックの名前も同様で、いつも説明的ではなく、軽やかなニックネームのようなものであり、それらを「単なる“記号”のようなものだよ」と石本さんから伺ったことがあります。名前それぞれに意味はないし、そんなことを意識するのは窮屈だといったお話をされていました。

このタイガというテキスタイルも、8月頃に、出穂前の稲が風になびく姿をイメージして描かれたデザインですが、フィンランドでの名前は、Taiga(ロシア語でシベリア地方の針葉樹林の意味)日本語名は草原という、それぞれ別の意味のタイトルです。

以前にもインスタグラムでご紹介しましたが、Taigaという名前は、フィンランド・グラスデザイン界の巨匠オイバ・トイッカさんから生まれたというストーリーもとても魅力的です。



石本さんが当時オイバさんに「どう思う?」と見せて、「シベリア地方の草原の様子みたい。」「あ、その見方いい」「じゃあ名前は、タイガ??」「ヤァ、タイガだね」というような流れだったのではないかと想像します…

あまり知られていませんが、Taigaのデザインは、柄のサイズ違いで4種、存在します。

スクリーンショット (251)

①TAIGA/1978/草原・・・基本サイズ
②ARO/1978/(アロは中央アジアの草原の名前)・・・TAIGAの半分
③AAPA/1978(Only film=未発売)/ラップランドの草原・・・TAIGAの10分の1
④SUURI TAIGA/1992/大草原・・・TAIGAの2倍以上

AROは「版ずれ」を意図的に狙い、白い余白をつけているのが面白いと思われたみたいで、「ポジとネガ。ポジの線を2mm太くすると、当時のマリメッコのプリント機では、ずれた」とも石本さんが教えてくれました。

どこを切り取っても、どんな色や大きさに柄が変化しても、どんなに昔に生み出されても、成立するデザインは本当に素晴らしいと思います。

9月には石本さんが帰国されます。故郷に戻られてからも、故郷の原風景を改めて直接感じて頂きながら、50年過ごしたフィンランドの“原風景”を思い出し、これからも自由に制作されることを心から祈っています。


来月辺りには、ご本人からのコメントも加えていきたいと思います。
では。

黒川

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