ー女性能楽師の軌跡と今ー シテ方観世流能楽師 梅若能楽学院 教授 富田雅子師インタビュー<前編>
「謡と仕舞による 源平の盛衰」を観て
富田先生:
お忙しい中ご覧いただきありがとうございます。初めての女流能楽師が良い印象でご覧いただけてとても嬉しいです。
何かお聴き苦しくなかったですか。
富田先生:
そういうカタルシスを感じてくださったのであればとても嬉しいですね。
“能”って面白そうだと思って
富田先生:
私は4人兄弟の末っ子として育ちました。
中学の三年間、担任が音楽の先生でしたので音楽的影響を大きく受けました。
又、そのころは後に二番目の姉と結婚した人が早稲田大学の演劇科の修士課程におりましてenpaku(早稲田大学演劇博物館)の事や、河竹先生(注2)や郡司正勝先生(注3)などの話を熱心にしてくれました。そして日本の演劇の中枢というか、要に位置するものは “能”なのだよっていう話を聞かされていまたした。
でもまだその頃の私は能には興味がありませんでしたね。
後に愛知学芸大の音楽科に進み卒論には、お能の囃子をテーマにしました。日本の音楽の魅力は?と。
義理の兄の言葉を思い出し、名古屋の熱田神宮で数回お能を観たら、“能”って面白いと思って。
当時の自分は授業で声楽に関してはドイツリードやイタリーソングより、日本歌曲の方が肌に合っているように感じてもいましたから。
外国の言葉の壁が大きかったと思います。
卒業後は、学校の先生になるつもりでおりましたが、世間を知るために2,3年のつもりで上京、義兄の経営する小さなマーケティングの会社に就職いたしました。結果はそのまま東京に居座ることになってしまいましたが。
30歳になったとき、以前開校間もない梅若能楽学院(注4)に姉が半年ばかり在籍していたご縁で、開校十年目に私も入学させて頂きました。
当時の私は仕事が忙しくてあまりにも残業がすごいものですから、気分転換するためモダンダンスや油絵等いろいろやってもみました。
そのなかでも、お陰様で大きな声で謡い、背筋を伸ばした仕舞の動きは自律神経症や胃下垂などの体の不調を改善してくれたようです。
梅若能楽学院―女性能楽師の会
富田先生:
入学時は、先代の梅若六郎先生(五十五世 梅若六郎)が学院長でした。
私は夜間の部で6年学び無事学院を卒業いたしました。
お稽古では仕舞で身体を使い謡で声を出して心を開放し、また仕事場に戻り残業。自分ながらよく続いたと思います。
そのころ働いていた会社も岐路に立っていました。院長でいらっしゃった今の梅若実玄祥先生( 梅若実/五十六世 梅若六郎)が
「学院の生徒さんを教える先生方の助手の形で残ったら」って言ってくださいまして、先生の社中「梅英会」にも併せて所属させて頂きそれ以後学院とのご縁を続けさせていただいております。
富田先生:
はい。「梅英会」の先輩で初めてプロの能楽師になられ太田尾京子先生が、学院の講師としておみえでした。
その後同じく橘会(五十五世六郎先生の後を継がれた五十六世六郎先生の社中の名前)の先輩お二人がプロになられましたね。
まだお若かった今の梅若実先生が「女の人には男性の真似ではなく“女性の能”があっても良いのでは」との、その頃としては進歩的なお考えで、女性能の在り方を模索され色々の環境を用意して下さいました。
学院の先生にもなられた和田恵美子さん、梅若職分のお弟子さんより女性能楽師のなられた髙橋栄子さん、私の若手三人で「三つ樹会」(みつきかい)という演能の為の会を作ってくださいました。
先生の後ろ盾と梅若の職分の先生方のご助力により、それから年1~2回演じることにより「能」のイロハをご指導頂きました。この会は10回を重ね現在の梅若女流能の基礎的な存在となったと自負しております。
その間に女性能楽師が多くなられたので、「三つ樹会」から女性全員の為の「女流梅若会」へと組織替えとなりました。
(今の実)先生は、10回くらい続くと“人間の関わり、中身が変わってくる”とのお考えなのでしょうか、時機に応じていろいろ組み換えをなされるんですね。
ですからその次は女流だけじゃなくて、男性主体の「梅若会」に一時期女流も組み込まれました。
女流能の流れを整理しますと演能の会は、昭和和58年結成「三つ樹会」よりはじまり、「女流梅若会」「女流梅若定例能」「東京梅若会」「梅若会定例能」「梅若会」と所属名が変遷し、平成22年より現在の「梅流会」の名のもとに演能活動をいたしております。
実先生(四代 梅若実/五十六世 梅若六郎)も女流の形はどんなふうにしたらいいかといろいろ思案されて検討くださってい
るんだと思います。女性だけでやったり男性の中に混じってみたり。
その間、私も個人の素人会「緑華会」という会名を頂き、後援会を持つようになりました。
女性が能で演じ謡うことについてー
富田先生:
学生時代は、イタリア歌曲やドイツ歌曲を歌っておりしたけれども、能の発声はクラシックと全然違うんですよね。
能の謡は地声での発声ですのでお稽古の当初、しばらくはそれに抵抗を感じていました。
でもここでお稽古続けるからには地声でしなければと切り替えてゆきました。次第に地声の力強さ、洋楽とは異なる心地良さ、感情を素直に表現出来るなども加わり、日本語の言葉の美しさ、言葉のリズムも加わりその魅力をとても感じるようになりました。
最初の頃はいわゆる“黄色い”高い声でした。コーラスなどでは通常ハモル(ハーモニー)のですが、地謡の一員として同座するときは男性のオクターブ低い音に同調、シンクロして邪魔にならないようにするのですが、力の入った声にならないのです。
又、役謡の時は自分の本来の音程をキープして対応し、曲全体が違和感なく自然の雰囲気になることが命題となります。
これらの問題は男女の声の初歩的で基本的な問題として、今もずっと私の課題となっております。
さて自分の声は、と。今の実先生(四代 梅若実/五十六世 梅若六郎)のおっしゃるのは、“何も低い音にする必要はないし、自分の声で”と。これは個々の生の声ではなく“力のある声”が出来れば、と解釈致すところですが、自分には“いまだ道遠し”の感です。
富田先生:
そう、思いますよね?
決められた音程を鍛えた自分の声で伸びやかな声で歌い上げるクラシックも魅力的でありますが、自分固有の音程で物語を紡ぐ力強い言葉の響き、謡の発声というのはつくづく個性の強いものだなと思いますね。
誤解されるかもしれませんが、改めて日本語を母語としている幸せを感じます。
富田先生:
正直申しますと、女性によるお能一番を演じるに必要な女性の数が揃えられたらとおもいます。
シテ、地謡、後見を女性だけで出来れば、各自一曲を創り上げるという自覚も高まり実力も増すのではと期待しております。
力強い男性に女性が加わっても先に申したように、男性の力強い声に飲み込まれ女性の声は発揮できず、女性の謡による女性の能にはならないと。
ですから、女性の創る「女性の能」シテ・ツレ1~2、後見2,地謡6~8人。合計9~12人が必要なのです。
その集団を作れないから、地謡(注5)は男性の方にお願いしてというのがほとんどですよね。
女性の能の魅力
富田先生:
正直もうしますと、残念ながら女性には力強さとか人間性の胆力を要求される曲は、不向きかと。
ですけど、女性特有の優美さ、優雅さ、几帳面さ、繊細さ、情の深いもの。そんな特徴を活かせる曲を、生身の人間から昇華した形で表現出来たら最高でしょうね、技量が備わった上でのことですが。そういう曲目は限られますけど。
先ほど申し上げた、実先生(四代 梅若実/五十六世 梅若六郎)は、その頃我々を育ててくださったお言葉に「女性にしかできない能があってもいいのでは」と。
富田先生:
はい、私は知りません。他流の女流のかたにも、“恵まれていらっしゃいますね、羨ましい”との言葉もいただきました。
宝生流、金春流の方は女性のみの地謡で演能されてように番組では拝見しております。観世流では2~3伺っておりますが、
梅若の女流能は組織として良く纏まってるんじゃないかと思います。
富田先生:
本当にそうなんです。それはもう先生はじめ職分の先生方のご協力の上に20年以上も続いていまいりましたので。
我々は良い時代に育てていただいたという感じですね。
富田先生:私が少し鈍感なのかしれませんけど、苦労と思ったことはあまりないんですよ。
それは梅若会の先生方も六郎先生が女性能を育ててくださっている流れを、温かく見守ってくださっている環境の中に居るということなのでしょう。
個人の会を作るのを見守ってくださったり、女性の居る場所を確保するというか、ただの下っ端でも役割を与えてくださる。
先生方のお素人会では、女性のお弟子さんたちの着付けを我々女性のプロの人達がお手伝いさせて頂く。又演能の折の装束の繕いなども。
このように梅若会の中で女性にも存在する場所ができたことは、能を演じるという本筋には外れるかもしれませんけども、そこに居場所が出来たと思うのです。
“自分はここにおりますよ”、“女性にもお役に立つこともありますよ”っていう感じぐらいでしょうか。女性の存在感を少しずつ広げられた気がするんですね。
自分が舞台に少しでも関わっていると自覚するには、空気のようにいつも謡や仕舞を身近に観肌で感じていることが必要じゃないかと思うんです。
生活のリズムの一部に能の世界を組み入れること。
お弟子さんのお稽古然り、経験の浅い私にとっては(お役がない折も)常に勉強しときなさいって言われても具体的には判らないので、なるべく多く現場に近い場所にいられるように。
こんな時ふと自分の性格を思うのですが、渡辺和子さんの著書『置かれた場所で咲きなさい』のタイトルの言葉を、身近に感じます。
元来貪欲に開拓していくっていう性格ではなくて、たまたまその状況に置かれたからその場所で何か自分が必要とされる環境を、いわゆる居場所を作るというか、そういう体質だと思うんですね。開拓精神には欠けるかもしれませんが、与えられた処で周りにも認めて頂けるよう努力しながら心地よく楽しむと。
<後編>に続く
■富田雅子師プロフィール
昭和17年(1942年)旧満洲国新京市 生 (愛知県安城市出身)
昭和40年(1965年)愛知学芸大学・音楽科卒業
昭和48年(1973年)梅若能楽学院(先代・梅若六郎師院長)入学
昭和53年(1978年)梅若景英師(現・六郎玄祥師)に師事
昭和57年(1982年)観世流 梅若会所属
平成 2年(1990年)観世流師範資格認定
平成17年(2005年)観世流準職分資格認定
現在
梅若能楽学院 講師 在校時より助手を経て現在に至る
NHK文化センター(青山教室)講師
素人会「緑華会」を昭和53年より主催
演能履歴
昭和57年 初面 能「猩々」
以後、「三つ樹会」・梅若会主催の「梅若女流能」「梅流会」・「緑華会」「緑華会能の会」の舞台にて
披き 能「猩々・乱れ」/能「石橋」/能「道成寺」/能「砧」/舞囃子「鷺・乱」等
現在に至る。