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たしかにある時間

美術や芸術には全く興味がなかった母だ。

思想的なもの。人生がどうだとかそんな話、自分の想いなどは聞いたことがなかった。

私が化粧品のセールスのアルバイトを始めた時、フェイシャルマッサージとメイクの練習をさせてもらおうとしたが、頑なに断られた。

"世の中の女性はいくつになっても美容について興味があります"その頃、自分の技術を磨くため、高齢者施設でハンドマッサージやメイクのボランティアをしようかと思っていた私はそう教えられていたので、この人は何を考えているのか?とイライラした事もあった。

その代わり、何も試さなくても洗顔化粧品だけは即購入してくれた。

高校を卒業し美術やデザイン、広告関係の勉強をしたいなと思っていたが『そんなので食べて行けない、甘い事いってんじゃない』と反対された私は東京にある寮付きのスーパーマーケットへの就職を選んだ。なんとなく口うるさい親から離れて自由に自分のお金で生活したかったからだ。

でも1年経って仕事の愚痴を言う私に『そんなに諦めきれないなら』と専門学校に行くお金を援助してくれた(いまおもうと私の貯金なんてほぼなかった)

18の頃に両親の元を離れ上京した。今思えば18歳なんて!子供だよ。母にすれば産まれてからあっという間に家を出ていったとも思える年月だったのかもしれない。18年間しか同じ家で暮らしていなかったんだな。

家族といえど、何も理解できてなかったのかもしれない。理解してあげられてなかったのかもしれない。

こうやって今、断片的に日々いろんな出来事を、ふっと思い出してきて、あの時こうしていたら…などと答えのない問いをしてばかりだ。

まるで現代美術の難解な作品について、一体これは何を意味しているんだろ??と考えるかのように全く正解が見つからない。

ちなみに夫(まるで芸術には興味なし)と美術館に行った時、こんなんの俺にもかけそうだぜ!ははは!と言い出して私は、こんな性格の人に救われている。

考えたら作者の他に、いやもしかしたら作者でも?誰にも正解なんて出せる訳がないから、もっと別のところに意味があるんだろうなと、そんな事をぼんやりと考えてみる。

そっか。答えが出ないことは、答えがあると前提している時点でもしかして間違ってるのかもしれない。こんなふうに色々考えを巡らせ、想い出すこと、その『時間』自体に意味があるのかもしれない。

そう思ったら、母とのあのイライラしてた、当たり前に過ごしていた日々が一番貴重なのかもしれないと思えてきた。

そして私には今も続くそんな【日々】が大切なんだとこれだけは明確にわかる。




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