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カズオ・イシグロとヤクルトの記憶について

ノーノーを持ってあっけなくシーズンが終了してからの日々を、私はなかなかの喪失感をもって過ごしていた。いや、というか正確に言うと、「毎日ヤクルトの試合があったあの頃ってなんてしあわせだったのだろう・・」と遠い目をしながら毎日過ごしていた。

あんなに深く傷ついたはずなのに。もう二度と見ないと何度も誓ったはずなのに。思い出はいつもきれいだけどそれだけじゃお腹がすくわとジュディマリも歌っているのに。

だけど10月が過ぎ、11月が過ぎ、12月を迎えた今、私は「あんなにスリリングな日々をよく送ることができたな自分?」と思いながら過ごしている。よくもまあ心臓発作を起こして死ななかったなとすら思う。毎日毎日毎日、あんなに胃の痛い日々によく耐えたものだ。誰か表彰してくれないだろうか。

もう今となっては、毎日毎日18時になれば試合が始まり、神宮へ行く日は15時頃からそわそわ支度を始めていたことが信じられない。そんなハードな毎日もう送れないんじゃないかとも思う。

そう、人はいとも簡単にあらゆることを忘れていく生き物だ。

昨日まで、カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」を読み返していた。

ちなみにカズオ・イシグロの作品の中では今のところこれが一番好きだ。情景は美しく物語としてとても深みがある。章の成り立ちも進み方も入り組んでいて飽きさせない。歴史・戦争・そして夫婦というテーマが、どれも胸に迫る。何度読んでも景色が違って見える。あまりに素晴らしい、そして美しい傑作だと思います。

これを読んでいると改めて、記憶にとどめておくことというのは大切だけれど、でも、忘れゆくことも時には大切だよな、と思わされる。

「憎しみ」なんてその最たるもので、戦士であるウィスタンが、少年エドウィンに想いを託すシーンがとても切ない。民族同士の戦争も、夫婦の平和も、記憶が司る部分は思う以上に大きいのだ。

だから例えば丸がコアラのマーチに心揺れず巨人を選んだことはいつまでも引きずらず忘れてあげなきゃいけないわけだ。なんのことかよくわからないけれど。

そしてこの本においてもう一つ学ぶべきことは、ほんとうに大切なことというのは、記憶の奥底の引き出しの中にしまわれても、結局のところいつかそっと取り出されて思い出すものだ、ということである。

これは例えば読書なんていうものはそれが顕著で、私は読んだそばから信じられないくらいあっさりと忘れてゆくのだけれど、それでも印象深い一節や、そこから感じ取ったことというのは、折に触れて思い出したりする。それはもう自分の奥深いところに染み付いて、知らず知らずのうちにその先の「選択」に影響を与えたりする。

だけどそうしてそれが「腑に落ちる」ように、自分に根付き、実際に何か具体的な行動に移るまでには、正直なところけっこうな時間がかかる気がしている。まあそれは、私が何をするにも何を理解するにも人一倍時間がかかるからかもしれないけれど。

だから「何もしない」時間というのはすごく大切だ。それはもちろん「休息」という意味においてもそうだけれど、とにかく「時間をおく」ということで、見えてくるものはあるのだと思う。なんというかこう、熟成させるような。

まあそれによって何が見えるのかというと、スガノってすごいんだなとか(泣きたい)、なおみちはけっこう頑張ってたんじゃないかとか、たいしってなんというかいいヤツなんじゃないかとか、私は昔サッカー選手の楢崎が好きだったけれどそういやぐっちと顔の系統が似てるんじゃないかとか、まあそういうレベルの話なのだけれどもそれってすごく大切なことだ。たぶん。

12月に入ると、シーズン中のあの野球が全てみたいに思えていた日々をいったいどんな風に過ごしていたのかがよくわからなくなる。シーズンに入るとまた、オフになったら何をして過ごせば良いのかがわからなくなる。

それは、寒い冬には夏の暑さを思い出せず、暑い夏には冬の寒さを思い出せないのと同じことだ。

きっとまあ生きてくためにはそれがきっと大事なんだよな、と、思いながら、今日も私は開幕までの日数を数えている。とりあえず甲子園近くの宿は押さえておこうかなとか思いながら。

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