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96敗のヤクルトスワローズに託された私の人生

とにかくビールが美味しくて

そこで飲むビールが格別に美味しいと気付いたのは、2016年の夏頃だ。ピッチャーとキャッチャーが敵か味方かさえ知らなかった私を、スポーツ観戦好きの夫と当時5歳の息子が、しきりに神宮へ誘ってくるようになった。

「ビールおごるから一緒に行こうよ」と言う夫。そこにビールがあるのなら、断る理由はない。

息子は当時から、野球の選手にもルールにも詳しかった。子どもというのは、好きなものに対して大人なんかの想像をかなり超えた吸収力があるものだ。当時のスコアブックには、息子のつたない字でびっしりとメモが書き込まれている。

真剣に大声で応援する息子はかわいくて、そんな息子を見ながら飲むビールは格別だった。目の前では、ヤクルトがよみうりを倒していた。なんて美味しいんだこのビール。(当時私は「よみうり」のライバル紙に勤務していた。)次第に球場に足を運ぶ回数も増えていった。

2017年6月4日、西武戦に私は人生をかけた

2017年6月4日、私は神宮内野席で西武戦を観戦していた。グラウンドには、自分と同世代の選手が「ベテラン」として立っていた。だけどそういった選手が、自分よりも若い選手の年俸より少ないことだってザラだ。そこに立てば、全員が同じ立場で戦うことになる。上司や部下の関係性はない。12年間、年功序列の世界でサラリーマンをしていた私には、それすらも新鮮だった。

一方で私はその頃、そのサラリーマンを辞めようかと考えていた。よみうりたおせ!と言われながら、新卒から12年続けてきた某新聞社の広告営業職を辞めて、夢だった書く仕事をフリーランスでやっていきたいという気持ちが強くなっていた。でも長年続けてきた安定した環境を変えるのはすごく怖い。決断ができずにいた。

試合は、7回が終わった時点で、8-2と点差が開き、当たり前のようにヤクルトが負けていた。いつだったかよみうりを倒してくれたはずのヤクルトは、その頃連敗中でどこかしこにも負けていた。今日も負けるな、と、私は静かにビールを飲んだ。

ところが、8回裏に2点を返したヤクルトは、9回裏、みるみるうちに8-8の同点に追いついたのだ。

村上春樹は、1978年、神宮球場の外野席で、デーブ・ヒルトンが2ベースヒットを打った瞬間、「空から何かが静かに舞い降りてきて」、小説を書いてみようと思いついたという。野球にさっぱり興味がなかった私にも、そのエピソードは、昔からなぜか深く心に残っていた。

それを思い出しながら、「この試合でヤクルトが勝ったら、明日上司に会社を辞める旨を伝えよう」と私は自然と思った。目の前で、同世代の選手たちが若手と同じように走っている姿を見ていたら、なんか私だって、一からやれるんじゃないかと思えてきた。それくらいに、ドラマチックな試合展開だったのだ。

その試合の結果がどうだったかというと、見事!

・・・延長12回、8-8の同点のまま終わった。

やはり、自分の人生は自分で決めるべきということだ。ヤクルトに託している場合ではない。当たり前だ。

2017年9月30日、中日戦、「消化試合」でぐっちは言った

もう一つ、忘れられない試合がある。9月30日、中日戦。子どもたちと三人で、一塁側の内野席にいた。今シーズン、最後の神宮だ。ところがご存知の通り、ヤクルトは「歴史的大敗」を記していた。上の方の優勝争いなんて遥か雲の上の話、最下位はもうしっかり確定していて、文字通りの消化試合だった。

だけどこの試合で、ヤクルトは4-0から追いつき追い越されながらの逆転勝ちをした。勝利が決まった瞬間のライトスタンドの盛り上がりときたら、すごかった。優勝したんじゃないかこれ、と私は思った。いや、ダントツの最下位なのだけど。

お立ち台にはタイムリーを打った坂口選手が立った。息子がぐっち!と呼んで応援していた坂口選手は、2015年に、長年属したオリックスから、限度額を超える年俸を提示され、復活を心に誓ってヤクルトへ移籍してきた選手だった。33歳、一つだけ年下だ。

同世代の選手が、どん底から這い上がって、新しい環境で、ひたむきに、謙虚に、でも貪欲にプレーしている。簡単なことじゃない。厳しい立場に追い込まれ、きっといろんな声が聞こえる中で、腐らず、何かを、いや自分を、信じ続けないとできないことだ。でも、それは不可能なことでは、ない。坂口選手の姿が、それを教えてくれる。

「ファンの皆さんには辛い思いをさせたけれども、選手は一人一人、それでも残りの試合を勝てるように必死に戦っていきます」と坂口選手が言った。なんだこのいけめん・・。坂口タオルを持って必死に手を振っていた息子に、隣に座っていたおじさんが坂口キーホルダーをくれた。よかったな、本当によかったな、ぐっちやってくれたな、と、にこにこしながらおじさんは言った。

そしてそれは、私のサラリーマン最後の日ともなった。結局、同点で終わったあの西武戦の翌日、私は上司に辞意を伝えていた。

坂口選手ほどの不屈の魂で再チャレンジできるかはわからない。でも、できるところまでやってみよう。どんな環境に立たされたとしても、腐らず、続けていれば、見えてくるものがきっとある。そう思った。私もまた、新しい毎日を歩み出そうとしていた。

だからこれからも、ヤクルトスワローズとともに。

村上春樹のように何かの啓示を受けたわけではないけれど、2017年、私がヤクルトと、選手たちと、そしてその生き様に、少なからず影響を受けたのはやっぱり事実だ。その年の決断に、私がこのチームに重ね合わせたものは少なくない。

2018年、今のことろまたヤクルトは連敗している。私も仕事の波はまだまだ激しい。だけど、まあ、歴史的大敗をしたチームなのだから、今すぐにめちゃくちゃ強くなることはないだろうし、独立してすぐに仕事が安定するわけでもない。

それでも、10年後も20年後も、きっと50年後だってヤクルト応援しているだろう。(きっと大好きな仕事も続けている。)ただ、ヤクルトを好きになるのが34歳と遅かった分、同世代の選手が活躍してくれるのは、きっともうそんなに長くはない。私は心のどこかで少しだけ、そんな同世代の選手たちが、その手で優勝を掴んでくれるところを目にできたらいいなと思っている。それが、私の今のささやかな、いや、たぶんものすごく大きな、夢だ。

※編集後記
こちらは、「文春野球フレッシュオールスター2018」に応募し、「惜しい!あと一歩だったで賞」をいただいた原稿です。選んでいただいた文春野球のみなさま、ありがとうございました!

好きなことで好きな文章を書き、誰かに読んでいただける、印象に残してもらえる、というのはものすごくうれしいことです。(いつもnoteを読んでいただいているみなさんもありがとうございます!)

同時に、読み返しながら「あと一歩!」なのも納得だな、と思っています。ほんと、ヤクルトみたいだ。これが今年のヤクルトと私だな、と思いながら、精進し、また来年がんばります!(ヤクルトも!)

※文中に村上春樹が神宮球場で小説を書くことを決めたのは1984年と書いていたのですが、1978年の誤りでしたので修正しています。ぐっちバイアスがかかっておりました。(1984年はぐっちの生まれ年。)ぐっちバイアスをお詫びして訂正いたします。

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