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出生直後生死を彷徨うも元気になってNICUを退院

こんにちは。むしゃ子です。

私は、自分のような障がい児ママが自分と子を受け入れて、笑顔で子育てできるように活動しています。

今回は、私たちのもとに生まれてきてくれた長女、むしゃ美について。

むしゃ美は生まれてから様々なことを乗り越えてきました。

まずは当時の状況から。ではどうぞ。

生まれた瞬間のむしゃ美はうまく呼吸ができず、状況は緊迫

テレビなどで見る出産シーンでは、

赤ちゃんがお腹から出て来た瞬間、
「オギャーオギャー!」と泣いていることがお決まりの光景。


私も当たり前に、そのような光景が見れると思っていました。

でも、私が目の前で見た光景は正反対でした。


むしゃ美は生まれた瞬間、泣くこと無く

周りの大人たちの緊迫した状態。


NICUの小児科の先生や看護師さんは赤ちゃんのために
一生懸命対応してくださっていました。


生まれた直後のむしゃ美の身体の酸素濃度は、時間が経っても改善されず

仮死状態でした。


小児科の先生は、人工呼吸器をつなぐための管を、むしゃ美の口から入れました。


一通り処置が終わった後、小児科の先生は、私に、

「お母さん、お子さんは大丈夫ですからね」と声かけてくれて


そして、むしゃ美は先生と看護師さんによって、NICUへ運ばれていきました。


在胎週数35週、体重2550g、身長44cmでした。


その日の朝、大学病院へ転院することに

むしゃ美が運ばれ、私は3時間ほど分娩台で睡眠をとった後

その後、小児科の先生が説明しにきてくれました。


「今は状態が落ち着いているけれど、心臓が悪い可能性があるので
近くの大学病院へ転院する必要がある」


説明は、私だけではなく、夫にもリモートで、説明をしてくれました。


有難いことに、私も転院させて頂くことになり、離れ離れにならずに済みました。


むしゃ美も私も支えてもらいながら、「きっと大丈夫」と確信があった

診断名は「卵円孔早期閉鎖」。心臓の病気です。

(詳細は他の記事で解説しています)

それが原因で肺高血圧症になっており、肺出血のリスクが高い状態。

とにかく、良い状態ではありませんでした。


そのため、鎮静剤、酸素療法、一酸化窒素療法、昇圧剤など様々な高度な医療を施してくれました。


私が入院している場所とNICUは併設されており
毎日、面会することができました。


面会中には、主治医の先生が絵を描きながらわかりやすく、
むしゃ美の病気や症状について説明してくれて

私は、必死で聞いたことを覚えています。


たくさんの管に繋がれたむしゃ美。

鎮静剤で眠らせられているけれど、面会で私が訪れるたびに

「あっ」と言っているように体が反応し

母親である私の声がわかっているかのように思えました。


そんなむしゃ美のことが愛おしく、可愛いくて。

毎日の面会が楽しみでなりませんでした。


ふとある日、主治医の先生にポロッと言った言葉があります。

「私は、この子のために何もしてあげられてないんじゃないか」って。


たくさんの管が繋がれて、必死に主治医の先生や、看護師さんの手を借りながら
生きているむしゃ美。

母親なのに、無力さを感じました。


「お母さん!そんなことないですよ!!!」と、突然に言い放った主治医の先生。

「僕らは手袋を介して触れてあげることしかできません。
肌で触れてあげられるのはお母さんだけなんです。
お母さんができることは、母乳をむしゃ美ちゃんのもとへ届けて、
身体に触れてあげることです。それがむしゃ美ちゃんの力になるんです!!」

残念ながら正確には覚えていないけれど、
こんな感じのことをおっしゃってくれたように思います。

この時の言葉は、本当にありがたかったです。


そしてむしゃ美の担当の看護師さん。

お話を聞いてくれて、私に寄り添ってくれて

心がとても救われたことを覚えています。

私も医療従事者だけど

この人みたいに、患者さんに寄り添えたらな、と初めて思いました。


私がこの子にできることは

母乳を絞って届けることと

毎日面会して触れること。


口には2本の管が入っていて

左腕には点滴の針が、右腕には血圧測定するための太い針が刺さっていて

足には酸素を測るものがついていて

様々な管が入った我が子。


一生懸命、この子はこの子で生きている。頑張っている。


そして、直感的に
「この子は絶対大丈夫。元気になって一緒に帰れる」と確信していました。



面会する度に、管が減っていき、次第に元気に泣けるように。

私は産後5日目で、むしゃ美をおいて一足先に退院。

毎日、3時間おきに母乳を搾乳・冷凍し、週2回病院へ届けに行きました。

実家から病院までは車で1時間半。

有難いことに母親が送り迎えをしてくれました。


入院中は、毎日面会に行けていたので

私が退院後、週2回、1日30分の面会時間(コロナ禍が理由)になったので
とても寂しく思っていました。


そんな私の思いと裏腹に、むしゃ美は面会する度に、どんどん管が無くなりました。

むしゃ美の「生きたい!」という力を感じられて
会う度に私は、感動していました。


そして、人工呼吸器の管が、口に直接入っていたのがマスク型になったことで

生まれて初めてむしゃ美を抱っこすることができました。


涙が出てきそうでした。

可愛い我が子、すやすや寝ていました。


面会時間の間、ずっと抱っこさせて頂いた後

ベッドに置いたら、パッとむしゃ美は目を覚まし、

「なんで、置いたのーーーー!!」と言っているかのように
泣きそうな顔をして、点滴が付いた腕をブンブン振り回していました。


「そんな動きができるんだね!」と、私は、感動しました。


そうして、生後13日ほどでようやく、マスクが外されて

自分で呼吸ができるようになっていました。

この時、私は初めて、むしゃ美の泣き声を聞くことができました。


大声で泣くことができており、元気いっぱいな姿を見せてくれました。


「むしゃ美の泣き声は、いつもNICU中を響きわたる」と
看護師さんが言っていました笑


そういえば、1度だけNICUの扉を開けた瞬間にギャン泣きの声が聞こえて

「あ、うちの子だ」
と思ったことがありました笑

元気に泣けるようになって、本当に良かったと心の底から思いました。


その後は退院に向けて、
オムツの替え方、お風呂の入れ方、授乳の仕方など丁寧に指導を受けて、

生後1ヶ月、修正10日目で、NICUを退院しました。


今回はここまで。

むしゃ美の病気を振り返ると、産院で産まれていたら亡くなっていた命でした。
脳の病気もあわせて、書いてるブログがありますので、
そちらも興味があれば、ぜひ読んでみてくださいね。

以上です!!最後まで読んでくださって、ありがとうございます!


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