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村上春樹論

村上春樹が「風の歌を聴け」でデビューしたときの衝撃はよく覚えてます。わたしが高校生のときで、その後しばらくは同時代の小説家としてフォローしました。愛読したのは「1973年のピンボール」と初期の短編集「蛍・納屋を焼く・その他の短編」「パン屋再襲撃」「中国行きのスロウボート」などでしょうか。

これらはいまみても傑作ぞろいで、その後の有名な長篇に発展した短編小説がいくつかあります。たとえば「ねじまき鳥クロニクル」となった「ねじまき鳥と火曜日の女たち」(「パン屋〜」)など。村上春樹の生にとって本質的なエピソードが、これらの短編集につまっているのだろうと感じていました。

そういった自分を自分たらしめる、あるいは逆に自分の存在をゆるがす原体験というのは、だれでもいくつかもっていて、人生のなかで何度も何度も反芻するものですよね。それらのなかでもわたしが好きだった短編は「蛍」です。この小説は後のベストセラーになる「ノルウェイの森」の原型になるものです。

高校のときの親友の自殺、その親友の彼女との交流、そして別れがあり、蛍がかすかな光を残して消えていく最後のシーンが印象的でした。村上春樹独特のかわいたユーモアが読者を小説の世界に抵抗なくひきこむところも、のちのベストセラー群の小説を彷彿させます。わたしも何度読みかえしたことか。

こういった小説の存在は一生覚えているものですよね。しかしいまから考えると不思議なことに、その後この本を再読することはありませんでしたし、村上春樹の新作を読むということすらなくなったのです。意識して読まなくなったわけではなく、単に結果的に、無意識のうちにそうなったのだと思います。

「ノルウェイの森」では、小説の最初と最後に、それぞれ親友と彼女が自殺します。しかし主人公の反応はまったく同じです。その理由をいろいろ考え、あるいは考えることをいっさいやめようと考えますが、実際には考えているふりをしているだけのように見えます。どうしてか?

村上文学の主人公はみな成熟を拒む人間だから。だれも定職についていないし、あるいは職業が明示されていたとしても、社会のなかで責任をもって働いているようには見えません。おそらく他者と適切な関係をむすぶことができない、協働することができない人間なのだと思います。

人間としての成熟を拒否した彼らは、村上春樹の小説の主人公に容易に感情移入できます。現代日本のベストセラーである村上文学の愛読者たちはそういったひとたちです。しかし元愛読者のわたしとしては、その気持は痛いほどわかるのです.

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