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留学は人生のとき

「空海と最澄はどっちが偉いのか」(島田裕巳)という本におもしろい記述があって、それを紹介しようと書いているうちに思わず長文になってしまいました。ご興味あるかただけどうぞ。

周知のとおり、最澄は国から命をうけた還学生として、空海は私度僧で自費で唐に渡ったとされていました。

いわゆるエリートとたたき上げという対比ですね。空海の前半生については自らが書きのこしたこと以外には資料がなく、それでこのような印象になっているものと思われます。また空海は、入唐にあたってさまざまな奇跡をおこしています(すべて空海側の資料)。

密教の師である恵果和尚が空海とはじめて会ったときも、「あなたが来ることをわたしは知っていた。あなたこそわたしが受けついできた法を伝えるべき人間だ」と告げ、即座に密教の奥義伝授をはじめました。運命の出会いであり、恵果はひとめで空海の才尋常ならざることを見ぬいたというわけです。

ところが近年、中国側の資料が再発見され、とても興味ぶかい事実があきらかになりました。「恵果大徳行状」という恵果の生涯がまとめられた文書で、九世紀にはすでに日本にもたらされたのですが、どうも真言宗側に意図的に黙殺されてきたようです。そこには以下のようなことが書かれているそうです。

「恵果は自らの病の重いことを知って、弟子の義明にすべての法統を継がせようとした。そこに日本の僧侶である空海が、天皇からの手紙を携えてやってきて、立派な袈裟と大金を恵果に贈った。さらに寺を立派に建てなおし、大々的な供養もしてくれた。そのうえで空海は恵果に頼みごとをした。密教の大悲胎蔵金剛界と諸尊瑜伽教法の伝授と、五十本の経本を与えてほしいと」

これだけ読むと空海は金で密教を買ったようにみえます。別な資料には、「恵果のもっとも重要な法を授かったのは義明と空海のふたりのみ」との記述があり、法を授かるだけの実力が空海に備わっていたのはまちがいありません。

ここでとくに注目すべきなのは、空海は唐にわたるときに天皇じきじきの紹介状をもっていたこと、それにみあうだけの大金をもっていたことです。これまでの通説とは違って、これは空海が国を代表するような立場で唐に渡ったということを示唆しています。

入唐以前の空海の「聾瞽指帰」などには密教的要素はみられないので、最初から密教に注目していたわけではまったくなかったようです。しかしきわめて優秀だった空海は、唐に流行しはじめていた密教に着目して、その重要性、将来性をすぐに理解したのだと想像できます。

当時の唐では密教は非正統で少数派でしたから、これを日本に持ちかえるためだけに自らがもってきた天皇からの紹介状と大金をすべて使ったのは、それ自体一種の賭けだったとしかいいようがありません。その結果は日本の貴族たちに大当たりしたわけです。

天皇からの紹介状と大金を携えていったのは最澄もおなじだったでしょう。最澄はそれを、当時の唐の仏教の中心地で、いわば一流の総合大学でもあった天台山に入門するために使いました。天台宗は当時の中国仏教の主流として、それまでのすべての教学をまとめあげた一大体系となっていました。

最澄はそれらを総合的に学び、その結果、日本の仏教の教学は飛躍的に発展しました。最澄のひらいた比叡山もまさにその趣があります。そこではおおくの弟子たちが輩出し、さらに鎌倉時代になると天台宗からはあたらしい仏教流派がつぎつぎと誕生していきました。

最澄も帰国直前には密教の重要性に気がついて、経典や法具などを急いで買い集めたりしたようです。貴族などの世俗的なニーズも、密教のたとえば加持祈祷のほうにあり、それに応えなければならなかった最澄は、のちに空海に頭をさげて入門までしますが、結局のところ最後はけんかわかれしたのは有名です。

一方、密教にターゲットをしぼってその奥義を学び、同時におおくの経典や両部大曼荼羅、祖師図、密教法具といったものを体系的に持ちかえった空海は、真言宗の祖として宗教的に大成功をおさめます。賭けにあたったわけですね。しかし密教としては空海一代でその思想が完成してしまいました。これは空海の思想家としての偉大さをあらわすのと同時に、真言宗のその後の思想的展開がほとんどなかったという弱点ともなります。

ここからは個人的な回想になりますが、わたしが研究留学したとき、遣唐使のことや幕末の遣欧使節、あるいは維新の留学生のエピソードに想いを馳せることがありました。すこしおおげさかとは思います(笑)が,しかし当時は結構まじめだったのです。すなわち、いったいなにを勉強してなにを研究するか、なにを日本に持ちかえるかということに考えを馳せざるを得ませんでした。

胎児医療ならばその全体、病態生理学などを系統的に学び、なおかつ胎児診断、胎児治療といった臨床面、あるいは研究のための遺伝学、MEといったひろい知識をめざせばいいのでしょうか。そうではなく、たとえばひとつの基礎研究テーマとか、ある一学派の診断ノウハウをきわめることに徹するのか。

とてもむずかしい問題です。最澄であるべきか? 空海であるべきか? これもまたおおげさですかね(笑)。しかし、留学にはどちらの可能性も目の前にひらけていると思うと、当時のわたしは目がくらむ思いがしたものでした。人生にただ一度だけ、そこにはその機会と時間が存在しているのです。

わたしの場合は前者でした。これはわたしの生まれつきの性向です。もしかするとふつうは、なにかひとつのことを究めるべきというのが正解なのでしょうか。そうかもしれません。空海は平安仏教界に受けいれられ、宗教的に成功しました。ひとは空海ならば日本に帰ってからの成功をめざすべきでしょう。

しかし人生はどうなっていくか自分ではまったくわかりません。自分の専門の研究をずっとつづけられるかは運であり、ちがう道に進むこともしばしばです。わたしといえばどうも中途半端におわってしまったという悔いはあるのですが、それでも貪欲に吸収した広い知識はいつでもかならず生きてきました。

空海か最澄か。どちらが偉いかではなく、どちらのやりかたが正しいかでもなく、空海最澄の生きかたというのは、それぞれの人間としての性向であり生の発露でもあります。そしてわれわれもおおきくそのどちらかに属しているのだと思います。

あたりまえの結論になってしまったかもしれませんが、われわれは選ぶことによって人生を生きていくのと同時に、生きることによって人生に選ばれているのでしょう。


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