西野亮廣作品の考察①/「ドロシー」~黒船を作った蘭方医と提灯屋~
これは西野ファン歴6年の私、
村田明日佳による西野亮廣作品の考察だ。
まだ考察途中で、どんだけ調べても
調べ終わる気がしないし、考えても考えても
答えがわからないことだらけではあるが、
考察の過程をnoteに残していこうと思う。
(※ネタバレ嫌な人は見ないように。)
■西野亮廣作品の考察⓪
~ファンタジーに隠された戦争の足跡~
映画「えんとつ町のプペル」を8回目に見た時、背景に出てくるものに注目して、考察しながら見ていた。
そこで気になることがあまりに多く出てきたので、映画が終わってすぐにスマホのメモにまとめ、家に帰ってから調べ始めた。
そこで見えてきたのは、西野亮廣はファンタジーに見せて戦争を描いていた、ということだ。
戦争が絡んでいるのは、てっきりオルゴールワールドだけかと思っていた。
西野さんの作品は全て繋がっているが、まさか戦争という部分でまで繋がっているとは予想していなかった。
だから気付いた瞬間、背筋がゾワッとして、普通にドン引きしてしまった。
「天才!」とか「すごい!」みたいなレベルを遥かに通り越して、ドン引きした。
構想の練り方がやばい。
狂気の沙汰。
まぁ、そういうところが好きなんだけど。笑
狂気ってこれめちゃくちゃ褒めてます。
天才のはるか向こう側。
はるか向こう側すぎてもはや見えません。
…ということで、そんな天才が描く謎多き作品の考察をこれから書いていきます。
タイトルで分かると思うけど、続き物です。
※随時、書き換えたり書き加えたりする予定。
※あくまで私個人の見解です。(間違ってても怒んないでね!)
※ネタバレがすごいので西野さんに削除してって言われたらすぐ削除しちゃうよ!
さぁ、こっからが本題!
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■西野亮廣作品の考察①「ドロシー」
▹映画「えんとつ町のプペル」より
(※これは厳密にはドロシーじゃないけど、それはまた今度。今すぐ知りたい人は、映画館で西野さんの副音声を聞こう!)
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1. 黒船を作ってしまった日本人
~蘭方医・村田蔵六と提灯屋・嘉蔵~
ペリー来航の翌年である1854年、宇和島藩の藩主 伊達宗城は、召し抱えていた蘭方医 村田蔵六(のちの大村益次郎)に、黒船を作ることを命じた。
(※それまで日本国内には蒸気機関が無かった)
蘭学は、天文学、物理、化学、そして医学など、様々な分野を学べる為、蘭学者や医者は西洋からの知識を多数持っており、更に村田蔵六は蘭方医の権威である緒方洪庵の下で学んでいた一級の蘭学者だったことから優れた知識を持っていた。
しかし村田蔵六は船など作ったことがあるわけもなく、困惑しながらも、誰か手先の器用な職人を助手にして欲しいとお願いし、提灯屋であった嘉蔵(のちの前原巧山)に声がかかった。
嘉蔵は貧乏職人で、提灯張りだけでは食べて行けず、簪作りなどの小間物屋や、家屋の修繕などをする便利屋をしていたため、手先の器用な男として藩内で有名だった。
そのような大それた物は作れないと一度は断った嘉蔵だったが、その半月後ほどに、ふと漁に使う網曳きのロクロを思い出し、これを工夫して船を進退できないかと考えた。
以来一室にこもり不眠不休で2日思案し、さらに5日かかり横一尺、長さ二尺五寸、深さ七、八寸の箱車に四輪を付け、心棒を一回転すると車輪が三回転するカラクリを作り上げた。
その後、村田蔵六と嘉蔵は長崎に赴いて、軍艦製造の研究を行い、1858年についに蒸気船を完成させた。
外国人の指導もなく、日本人だけで蒸気機関を完成させたのはこれが初めてだった。
参考:黒船を作ってしまった幕末の蘭方医と提灯屋
(※めちゃくちゃ端折ってるので詳しくはこの記事読んでね!)
- 映画 「えんとつ町のプペルと重なる部分」 ▼
・嘉蔵(前原巧山)が思いついた、一本の心棒を動かすと車輪が回転する四輪のからくり
→ドロシーの心棒をクルクルと回しトンボ玉を作るシーンに繋がる
・蘭学医である村田蔵六(大村益次郎)は蘭学に長けていることから、天文学にも詳しいと考えられる
→ドロシーの祖父は医者(おそらく蘭学医)であり、星読みの末裔であることから天文学に詳しい
・大村益次郎と前原巧山は黒船の研究をし、図面を描き、黒船を完成させた
→ドロシーは黒船の設計図を持っていた。
(※1/15追記:設計図を書いたのはダンさんでした!パンフレットに普通に書いてたとの情報を得た。答え見ちゃうとつまらんよなーと思ってたけどやっぱり買ってこようかな。笑)
・靖国神社にある大村益次郎像
→この大村益次郎像は、作中の曼荼羅交差点中央にある銅像(レター1世のもの?)に酷似している。
また、ドロシーは途中でプペルの銅像を作っており、ラストシーンでその銅像がプペルの銅像に入れ替わっている。
▹大村益次郎像-靖国神社
・(補足:これは関係あるか全く分からないが、大村益次郎は“火吹き達磨”と呼ばれていた。えんとつ町のプペルの作中、ドロシーが火炎放射器のようなもので火を吹くシーンが何度か出てくる。大村益次郎は見た目でそう呼ばれてただけなので考えすぎかもだけど一応ね。)
- 大村益次郎(村田蔵六)▼
→上記より、ドロシーの祖父のモデルでは無いかと思われる。
大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人に数えられる。
- 前原巧山 (嘉蔵)▼
→船の設計図を作ったのがダンさんであることと、前原巧山はミシンを製造していることから、ダンさんのモデルである可能性が高め。
前原 巧山(まえばら こうざん、文化9年9月4日(1812年10月8日) - 明治25年(1892年)9月18日)は、江戸時代末期から明治期に活躍した日本の技術者。巧山は号で、名は喜市(きいち)、元の名を嘉蔵(かぞう)と言う。純国産の蒸気船の製造で知られる。その他、ミシンも製造した。
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2.横須賀造船所
→映画「えんとつ町のプペル」の作中、ドロシーたちが船を直して細工したりしてた場所のモデルだと思われる
横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)は江戸幕府により横須賀市に開設された造船所。江戸開城後は明治政府が引き継ぎ、のちに海軍省の管轄となる。現在は在日米軍横須賀海軍施設となっている。
黒船来航以来、さまざまな不平等条約を結ばされた江戸幕府が西洋の先進技術を取り入れ、強力な軍艦や近代的な機械を製造するために計画し、建設された。
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3. 風船爆弾
→無煙火薬に風船をくくりつけ、煙を吹き飛ばした爆弾のモデルと思われる。
風船爆弾(ふうせんばくだん)とは、太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した、気球に爆弾を搭載した無差別爆撃兵器である。
秘匿名称は「ふ号兵器」。「風船爆弾」は戦後の用語で、当時の呼称は「気球爆弾」である。1944年(昭和19年)11月初旬から1945年(昭和20年)3月まで放球を実施した。
日本海軍の風船爆弾は「八号兵器」と呼称し、潜水艦に搭載してアメリカ大陸沿岸部まで進出、放球するという方式である。
(※風船爆弾の話をどこに書くか迷ったけど、まぁこれは考察過程だから流れでとりあえずここに置いときます。そのうち移動するかも。)
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※ドロシーとクレアのホクロの話とか、ドロシーがなぜプペルをかばったのかとか、そういう話もいつか書き足します。
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おまけ
・映画「えんとつ町のプペル」の作中、コウモリが何度も出てくるが、これはコウモリ爆弾のコウモリなのでは?と現段階では考えている。
ただ確証に至るような素材が無いため、そういうのもあるんだーくらいに思っといて欲しい。
- コウモリ爆弾▼
コウモリ爆弾(コウモリばくだん、英語:Bat bomb)は、第二次世界大戦でアメリカ合衆国によって開発された実験的な兵器である。
この兵器は、爆弾のような形をした千以上の区切りがされた箱で、各区画には時限式焼夷弾を付けられて冬眠させられたメキシコオヒキコウモリが収納され、夜明けに爆撃機から投下されたコウモリ爆弾は、降下中にパラシュートを展開し、半径20-40マイルの軒下や屋根裏へ入り込むコウモリを解放するようになっていた。
この焼夷弾の意図は、当時の敵国であった日本の都市の大部分が木と紙によって建てられていたことから、広範囲の通常では攻撃できない場所に火災を引き起こすことであった。
しかしコウモリ爆弾は原子爆弾プロジェクト(マンハッタン計画)との開発レースで追い抜かれ、日本への攻撃には原爆が使われたことから、実際に攻撃に使われることはなかった。
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▶1月15日より
映画「えんとつ町のプペル」副音声上映決定!
▶現在公開中!
映画「えんとつ町のプペル」上映映画館一覧
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