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アラン・ドロン主演の映画「影を殺した男」レビュー「死を見詰め続ける男」。

昔テレビの洋画劇場で「世にも怪奇な物語」という
オムニバス映画が放映された。
「オムニバス映画」と言うのは
ひとつの映画が複数の短編映画の集合によって
構成されている形式のコトで…
「世にも怪奇な物語」は3本の短編映画から構成され…
そのうちの1本がアラン・ドロン主演の「影を殺した男」だった。

非常に素行が悪く…サディストの不良少年で…
寄宿舎で暮らすウィリアム(アラン・ドロン)の前に
外見は自分ソックリだが
性格が正反対の少年(アラン・ドロン(2役))が現れ…
「もう悪いコトは止めとけよ…ウィリアム…」
と…ウィリアムが悪事を働こうとすると必ず現れ…
その悪事を妨害し始める…。
「白ウィリアム」の存在にイラつく黒ウィリアム。
思い余った黒ウィリアムは白ウィリアムの殺害を実行するが…。

ドッペルゲンガー(分身)という概念を僕は本作で初めて知った。
自分の目の前に自分のドッペルゲンガーが現れるのは
「どういうとき」なのかもな…。

手塚治虫先生の漫画「ブラックジャック」の
「人面瘡(じんめんそ)」というエピソードで
美形だが殺人が趣味の男の
顔面が世にも醜く変わり男の凶行を止めようとする。

映画「決死圏SOS宇宙船」というSF映画には
地球と何かもソックリだが
ただ左右のみが反転した「鏡面地球」が存在し…
住んでいる人間も「元の地球」とソックリだが
内臓の位置が左右反転してるのだ。
そして…「決死圏SOS宇宙船」の
原題のひとつが「ドッペルゲンガー(分身)」なのだ。

「鏡」と言うのは非常に身近にあって
多くの創作者のイマジネーションを喚起し…
「外見こそソックリだが何もかも正反対の自分」
という発想を数多く生み出して来た。

もうひとつの非常に身近な「自分の分身」とは
自分の「影」であって…
自分と「影」とは決して切り離せず…
自分が死ねば「影」もまた消えるが…
「影」が消えるときは即ち自分が死ぬときなのだ…。

ドッペルゲンガーが語られるとき…
ソレは「自分の死期」と常にセットであって…
自分のドッペルゲンガーが見える様になったら…
ソレは自分の往生際が来たと覚悟すべきと
多くの創作物が教えているのだ…。

アラン・ドロンは僕にとって「死にたがり」であって…
彼が死んで「終わる」話ばかり観て来たように思える…
甘いマスクの下で…常に彼は「自分の死」を見詰め…
向き合ってきたように思う…。

彼が「サムライ」に出演したとき…
彼の「死生観」を鑑みるに…
誠に…彼らしい選択だと思った…。

本日彼の訃報を受け取って…
ロミー・シュナイダーの葬儀の際の彼の追悼文を思い出している…

「僕は君を見詰めていたい…永遠に…」

僕にとってアラン・ドロンとは「見詰め続けるヒト」であって…
ソレは女と付き合う際の心得などと言った話ではなく…
彼は…ずっと…「死」を見詰め続けていたのだと…
「君」とは「死」のコトなのだと僕は思ってるよ…。

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