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共感-感情の湧く源泉を辿る

私は幼い頃は人懐っこい、明るい、人が好きな子供だった。
10歳を境に人見知りになり、人との繋がり方がわからなくなってしまった。

近年、ようやく様々な人たちと関わりを持つことができるようになってきた。足がけ30年以上の道のりだ。

ただし、それは表面部分を取り戻したにすぎないことも感じていて、そんな自分にずっと後ろめたさがあった。

今回はエンパシーに触れ、今まで取りこぼしてきた大事なものを拾い集め、奥底に取り戻す感覚を伝えたいと思う。

仕事での不安から垣間見た私の願い

ずっと生き辛さを何とかしたくて、精神的な安定を求めて、色んな人の色んなやり方で自分を深く見つめてきた。
ただ、安らいでいたかった。
苦しいのはもう嫌だった。

その過程で、障害者雇用での就労を目指し就労移行支援事業所に通い始めた。
2年かけてトライアルの形で就職したのが今年2023年の2月。

先日会社の上司と担当支援員との三者面談があった。

やりたい仕事をさせてもらいたいと言った私に、「何ができるか見極めている最中なので、その中で何をおまかせするかこちらで決めます」と上司が答えた。

上司の言葉に対し、自分の中に反応があった。それは怖さだった。

※この時私は以下の2つを認識している。
①私がまだ入社1ヶ月であるのに焦りすぎていた
②やりたい仕事をさせてもらうという表現は適切ではない

しかしその2点を差し引いても私を揺さぶるに十分な様々な感情があった。

冷たく否定された感覚と痛み。
評価に値しないのではという焦りと劣等感。
足が竦むほどの怯え。

そして、この場にいてはならないという疎外感と不安。

これらの感情はその1週間後に不調に繋がることになった。

感情は内在の反映

こういった外界への反応、感情は内在の反映であると私は考えている。
自分に不安や悲しみなどが起こる原因は、人や出来事にはない。
必ず自分の中に在る何かに触れているからだと、元々私は体感から知っていた。

エンパシー講座や認定講師の方とお話させて頂く中で、その感情は「自分が大事にしている価値観」が「損なわれたから」起きるのだと教えて頂いた。
体感が理論に裏打ちされ、足場が確実になっていくのを感じていた。

それを鑑みたとき、今回の出来事で怯え・恐れなど感情の元に、私が大事にしている願い・価値観の一部が垣間見えた。

「仲間に入れてほしい」「私も一緒にやりたい」
「参加して、目的を目ざして苦楽を味わいたい」

なんのことはない。
それだけだった。

子供の頃にみんな経験してなかっただろうか。
「𓏸𓏸ちゃんあーそーぼ!!🎶」
「仲間にいーれーて🎶」
ってやつである。

それが何より大事だったのだ。

上司から仕事が回されないことにより、「この場にいる資格がなくなり、皆と仕事ができなくなる」ことを私は恐れたのだった。


……今振り返れば、会社を選ぶ基準もそのニーズに基づいていたと明確に理解できる。

就労移行支援の支援員との面談では、
「やりがいのある仕事で認められたい」
と、よくそう伝え、実際そう考えてきた。

障害者雇用は選べる仕事の幅が狭い。
そこに理不尽さを強く感じていたことがあった。
最も現実として、障害者はこれまで社会での成功体験が積めず、年齢に比して仕事の能力が身についてない状況が多々ある。

でも、結局はその発言も高度な仕事がしたいとか高い給与をもらいたいとかいうことではなかった。
仕事も遊びも色んな人と関わりながら色んな経験をしたかったということだった。
その参加資格が欲しかったのだ。

願いをなかったことに

面談での上司の言葉は、私の願いを拒否するものだと私は捉えた。
途端に怯え、恐怖を覚えた。
ここにいられないかもしれない…

一遠い記憶、子どもの頃の体験が思い起こされる。
なにかで褒められてちょっと自慢したくなった時、得意げに話す私に母親が「調子に乗るな」とピシャリと言いつけた。
瞬間、背中を冷気が走る。
私は口を閉ざす。
会社の面談での場面は、私にとってその一連の再現だった。

「私は得意げにしてはいけないのだ、目立ってははダメなのだ」

何度か同じことがあって、そう学んだ私はそれに相応しくあるように喋らなくなったし、目立たないよう存在を消した。
やがて余計なことを言わないことが長所と言われ続けるようになった。

存在のないものは何かに携わりようがない。
仲間への入り方も分からなくなった。

私には仲間に入りたいと言う気持ちなど一欠片も持ってないように生きてきた。
だけど受け入れてもらいたい気持ちはあり、他人に合わせて生きてきた。

願いと自己共感🟰自分を大事にする

それから最近までずっと、私は何か満たされないでいた。
社交的なのにコミュニティにいても自分を開示できず相談できず、ずっと自分の方を向いて自分に向き合ってきた。
自分に向き合っていると思ってるけど、実はただの自己欺瞞なのでは、と思うこともあった。

それが自分の中にしっかり腰を据え見つめている感覚になったのは、エンパシーに触れてからかも知れない。
この出来事のように、感情の源泉の元にある願いに気づくようになってから。

何かに携わる人達の仲間として加わりたい。
経験を通して何やかやありつつ、お互いに信頼していく過程を一緒に味わいたい。

そんなことを心から望んでいただけだとわかってから。

自分がずっと大事に抱えてきた願い。
色んな抑圧の元にないことにしてきた思い。
まだ気づいて貰えてない価値観。

それに気づくには1人では厳しいかもしれない。
感情を認めるだけでも様々な葛藤がある。
吐き出すことも容易ではない人もいる。
価値観を見出せるようになるまでに時間がかかる。

でもそこまで来れたらかなり楽になるし、
優しい人たちに囲まれるし、
世界は優しくきれいなもので

自分は自分らしく在ることができると言える。
体感から、断言できる。

1人1人が自分の価値観と解釈の中に生きている。
誰もが自分の価値観に気づき、相手の価値観を尊重してコミュニケーションができたら。

エンパシーが広がれば、
「安心して互いが互いでいられる」。

生きづらく信用ならない世界は、
自由であたたかく開放的な世界になると
確信する。


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