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『七つの前屈』ep.未処方硲「薬要らずの健康体~侵せ、毒。~」⑧

8.


「はっはっは。いやあ、すまないねえ、未処方くん。ご苦労」



 富所外専務は手に持った書類を満足そうに擦りながら、豪快な笑い声を上げる。



「まさか、わしの机の上に置いてあったとは……よく探したはずなのだがねえ」


「失敗はだれにでもあることですよ、専務。恥じることでも、謝ることでもありません」



 どうせこれも過去のことになるので結論から述べてしまえば、

富所外が血眼になって探していた書類(正確には彼が目を真っ赤にして探していたのは書類そのものというよりも書類を盗んだ犯人の方のようであったが)は、

彼の机の上に無造作に投げ出されていたらしい。

それをたまたま専務の処に用事のあった未処方が見つけ、報告した。



 事件で最も怪しいのは、いつだって第一発見者だ。



 点数稼ぎに躍起になる男子生徒然り、ピーキーな妹然り。


 欲望に目を眩ませる管理職然り。



 なにはともあれ、事件は一人の被害者も加害者も出さず、丸く収まった。



 ──いまのところは。



「なかなか頑張っているそうじゃないか、未処方くん」


「ありがとうございます。でも、べつに普通ですよ」


「そんなに謙遜するな、企業で働く人間にとって、普通であること以上に大切なことはない」



 とてもその『普通』ではなかったであろう──自身で自身のことを「普通の人間だ」と思ってはいないであろう富所外はそれから、未処方に向かってこう告げる。



「きみを見ていると、むかしのわしを思い出すよ」



 それは健康で健全な彼が散々いろんな人から言われてきた言葉。



 謂われなく、言われ慣れてきた言葉。



 非難や指摘や疑念の代わりに、ずっとかけられ続けてきた言葉。



「わしときみは、どこか似ているのかもしれんなあ」



『バーナム効果』。



 曖昧で一般的な属性を、自分だけの特別だと誤認させてしまう心理。



「恐れ多いですよ。僕みたいな平社員と専務のあなたが、似ているだなんて」


「わしは心にもないことはいわん。きみのことはなぜだか、憎めないんだよ」



未処方硲は、いわばその心理現象の体現者だった。



 平均であり基準点。

 どこにでもいる平凡──みんなみたいで、だれでもない没個性。



 その場にある要素を均して固めただけのような、箸にも棒にも掛からぬ属性。



 中間点。合間。ゼロ地点。



 狭間。



未処方硲を否定するということは、それはそのまま、自分自身を否定することにもなり得る──自分のことを言われているようだ、と勝手に思い込んでしまう。



 だから。



『硲が盗んだりするわけねえよな、悪い!』


『もう一人のお前の兄──な、わけないよな、すまん』



 友人であれど、家族でさえも。



 だれも彼を否定できない。



『そうだよ、ハザマにぃーがそんなことするわけないじゃん! ごめんねえ、ハザマにぃ』



自分を信じることは難しいが、自分を疑うことはもっと難しい。



 己の存在を否定し続けながら生きられる人間など、そう多くはない。



「予言しよう。きっと、きみは出世するよ。がんばってな」



 人間は、自分だけは特別だと思い込みたい生き物だから。



「ええ、まあ頑張りますよ──怪我をしない程度には」



 放っておいても、割合が変化すれば平均も変動する。



 健康に毒された退屈なサラリーマンは、強欲に目が眩んだ大罪を抱える管理職の部屋の扉を、ゆっくりと閉める。

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