信念・前提・常識を捨てることの難しさ

今も昔も興味の対象が多すぎて、なかなか一つのテーマを集中して学んだり書いたりすることができないのですが(汗)、最近は大学や教育に関することを書くと言いながら、古代文明の本などを読み漁っています。全然テーマ違うじゃん!という感じなのですが、古代文明の本を読みながら大学や教育のあり方について考えさせられることもかなりありました。

どの分野にせよ、「アカデミズム」や「学問」における「正統派」、「権威」といったものの頭の固さ、視野の狭さにはほとほと呆れかえっており、特に古代文明や歴史といった分野においての「正統派」の馬鹿げた主張には怒りを通り越して軽蔑すら感じます。科学や医学の世界でもそうですね。これまでの信念・前提・常識を覆すような説や発見は、「正統派」により、ことごとく握りつぶされ、(人も意見も)抹殺されてきました。もちろんバックには「正統派」を作り上げている支配層がいるので、支配者にとって都合の悪い異端派をあえて潰すこともあれば、それとは関係なくただただ個人的理由や見解で潰されるものもあると思います。「正統派」は人々を真実から遠ざけるために存在しているのかもしれません。

大学入学に至るまでに、「正統派」が押しつけてくる「教科書」の内容に疑問を持たず、ただただそれを暗記し、試験で良い成績をとることが勉強だと思わされてしまう人々。内容云々よりも試験に出るかどうかだけに興味を持つ生徒たち。こうして、教科書の外にあることには思いも至らない人間が養成されるんですよね。そういう人が大人になって、教科書とマスコミの言うことが真実だと思わされている社会が形成されているのが現状です。小さい頃から試験に出ることだけが重要で正しいと思いこまされていて、新卒含め何かの資格を得るためには「正統派」に染まることが必須となっています。新卒や資格が生きていくための給料に直結していればするほど、「正統派」から逃れることは難しくなり、そこから外れることは文字通り死にもつながりかねないほど命取りとなる場合があります。

大学やそれに付随する機関で学べることというのは、ある狭い枠の中の範囲のことに限られるので、本当の意味で学問を志す人は大学を辞めてフリーの研究者になるしかないと思います。何であれ何かを研究しようと思った時に大事なのは、これまでに習ってきたこと、信念・前提・常識をまず疑い、捨てていくことなのに、それをすると食い扶持を失うわけですね。特に古代や歴史なんていうのは、自分スタンダード、現代スタンダードの頭では到底理解できない世界であって、あらゆる思い込みを捨て、直感やインスピレーションを得て初めて手掛かりがつかめるような、そういう分野だと思うんですよね。そういう発想は「正統派」や「教科書」の外の世界にしかあり得ないんですね。

学問や研究に限らず、信念・前提・常識を疑い、捨てていくというのは、人間にとってとても難しいことなのかもしれません。今の私などは当たり前に正しいと思い込んでいた信念や常識を発見すると喜ぶようなところがありますけれども(笑)、それでもまだまだ数多くの認めたくない信念や疑いたくない常識はありますし、ずっとその途上にいます。腐った土台の上に何を乗せても崩れるのであって、現代の社会を見ていても、根本がおかしいのに上の方だけ手入れしてもねぇ、と思うようなことがたくさんありますよね。「働かざるもの食うべからず」という信念があるから他人をジャッジして酷いことを言ってしまうし、税は取られるのが前提と思うから取られる一方だし、感染症対策には手洗いと消毒が常識だと熱心にやるから荒れた手にアルコールがしみるわけですよね。何も信じるなとか正しいものは何もないとかそういうことではないんですが、何であれそのことに固執することはないんじゃないかな、と思いますね。これまでは〇〇と思っていたけど、こういう説もあるんだったら、そっちが正しいのかもしれないなとか、そういうこともあるのかもな、とか、そのくらいの気持ちであらゆる情報や考え方に接するのが賢明なのではないでしょうか。少なくとも、学問や研究に携わる人間には、そういった態度は欠かせないものだと思いますね。

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