人生の価値は長さではない。ならば何?(哲学)

不穏な話題に事欠かない昨今。数年前からのワクチン薬害。その危険性が広まりつつありながら、それでもなお、さらに危険な液体を庶民の体内にぶち込みたい連中、打ちたがる無知な大衆、止めようとする賢明な人々。これまでなんとか接種を免れてきた人たちも、次の薬害でいよいよおしまいか……そんなことは考えたくはないけれども、一応想定しておいた方が良いだろうと思い、あと何年かでこの人生も終わるかもしれないなどと考えることもあります。そもそも明日死ぬかもしれないと思いながら生きている部分もあるので、そこまで飛躍した話ではないですが、今度は本当にいよいよやばいのかなぁと思ったりもします。

死と向き合ってみるとやはり哲学的なところに行きつくので、薬害だ~危険だ~大量死の時代だ~と騒いではいるけれども、別に人生の価値は長さで決まるわけじゃないし、長生きすることは絶対的な是で、短命で終わる人生がダメかと言うとそういうことでもないんだし、病気とか死をあんまり恐れすぎるのも良くないなぁと感じます。健康で元気であるに越したことはないですが、それにこだわりすぎるのも良くないです。私は健康に執着して具合が悪くなるタイプなので耳が痛い話ではありますが、世の賢明な人々の発信する情報を見聞きしていると、「○○は危険だから対策として●●をしないと!」的なことで人生が終わってしまうのではないかという気もしています。

じゃあ人生って何なの?なんで生きてるんだろう?という話になるのですが(哲学)、以前から書いているように私が指針にしているのは、心清く生きるということ、愛の意識を拡大するということ、また、同じ意味になりますが、精神的に成長・成熟すること…そういったことを人生の目標というか、今回の人生で少しでも学び体現していけたらいいなと思って生きています。なので、次の薬害だったり、予期せぬ災害などであと少ししか生きられなかったとしても、上記のことが少しでも達成できたら、「あぁ良い人生だったな」と思って終われるのかなぁと思います。だからやはり長短ではないというか、精神的な濃さが少なくとも私にとっては(生き物共通と思っていますが言い切れないので)重要だと感じています。

ふと我に返ればちゃんとそういう風に気持ちを改めることはできるのですが、つい世間的な情報に流されたり、あぁ病気怖いな、死ぬの怖い…とか思ってしまったりして、不安や恐怖、無気力(どうせ死ぬしみたいな)に襲われることもあります。そういうことを何回も繰り返して、少しずつ本質的な意識で日々を軽やかに生きられるようになるのかなと思っています。なんでこんな大変な時代に生まれてきてしまったんだろう…とか何度も考えたことありますし、立場も権力もお金も何もない人間が世の中のしくみをなまじ知ってしまったばっかりに、悩みや困難が増えたなぁと感じることもあります。「知らなければ良かった…」というようなこともたくさんありますしね。(「知らなければ良かった…」を乗り越えるという記事も書きましたね。)知らなければ良かったと思うようなことを知ってしまうことになるのも、私の人生には組み込まれていたのかなと思っていますが…。

年の瀬にいつも以上にまとまりのない記事になってしまいました。世の中のいろんなことを知ってしまうと、知ってしまったなりに苦労は増えるし、病気や死に対する不安や恐怖に襲われることもあるのですが、そのたびに人生で本当に大切なことや学び体現したいことを改めて思い出し、起き上がりこぼしのようにたくましく生きていこうと思うのでした。

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