「知らなければ良かった…」を乗り越える

この世には「知らなければ良かった」ということがあるのかな、とたまに考えることがあります。私は世間的に「陰謀論者」と言われるような物の見方で生きている人間なので、ついつい「この世の闇」とか「裏側」「真実」みたいなものを追求してしまうのですが、知ってショックを受けたり、「こんなこと知らなければ良かった」と思うことは一度や二度ではありませんでした。ただ、そう思うのはやはり一瞬で、一度受け入れてしまうとそれが当たり前になり、耐性がつくというか、まぁそんなもんだよなーと普通に流せるようになっていきます。いつもだいたいその繰り返しです。

私がヘビーな情報を得ると、それを友人氏に教えたりするのですが、ある時その友人が私が教えた情報にショックを受けたらしく、「知る」ということに対してモヤモヤしたものを感じてしまう、という出来事がありました。何も知らずにいわゆる「平和ボケ」「お花畑」と揶揄されるような生き方をしていた方が幸せなのではないか、そうまで言わずとも、ショックを受けるようなことが世の中では行われているという事実を、別に知らなくても生きていけるんだから、それでいいじゃないかという気持ち。知れば知るほど絶望的な気持ちになるだけ…。私も何度も考えたことがあるのでよくわかります。

それで、過去に私がそのことを考えていた時の読書メモを取り出し、友人に教えてみました。『仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす』 ティク・ナット ハン (著) 棚橋 一晃 (翻訳) という本です。改めて自分の読書メモを読んで、結構いい感想だなと思ったので(笑)、一部載せてみたいと思います。2020年9月30日のものです。

(略)世の中で起きていることを知ることが、平和に生きることにもつながるかもしれないと思えた。知る、理解する、慈愛に満ちた生き方をする、ということはセットになっている。物事をありのままに見て、深い部分にある真の原因に気づき、理解することは、平和に生きるために、まず欠かせないこと。外の世界を変えようと思うなら、まずは内側を変えること。当たり前のようで当たり前でなく、多くの人が外側を変えようとして結局うまくいかなくなってしまう。
(略)何が間違っているのかを知るために、社会を正しく認識することは大切。そうしないと、真に平和のために生きることはできない。悪に加担することにもつながる。社会貢献とか平和とか口に出すのは簡単だけど、本当にやろうとすると何も行動できなくなる。でもそれが案外一番正しい道なのかもしれない…。

今の私は何か(ショッキングなことであったとしても)を知ることは、光になるととらえています。上記のような「平和ボケ」「お花畑」状態は、一見楽しそうですが、実は暗闇の中で生きているのと同じようなものだなと感じます。視野が狭く、嘘・虚構の世界で生きているというイメージです(私はよく「方便の世界」と言っていますが)。悪事は暗闇の中だからできるのであって、人々が知るようになればできなくなります。人々をずっと暗闇の中にとどまらせているのが主にメディアで、それこそがメディアの役割であり存在意義でもあったりしますからね。メディアが垂れ流す情報をいくら追っていても、暗闇の中からは抜け出せず、むしろより闇を強化してしまいます。

過去に「良かれと思って」善意の行動の難しさ という記事を書いたこともありますが、世の中のことをよく知らないと、良かれと思ってした行動が悪に加担することだった…ということが本当によくあります。最初から悪意がある人は仕方がないとしても(仕方がなくはないが…)、善良な人々が物事をよく知らないがために悪に加担するというのはとても辛いですし、できることなら事前に防ぎたいと思ってしまいます。だからこそ、受け入れがたいショッキングなことであっても、「陰謀論でしょ」などと片付けずに、目を見開いて直視することは大事だと思います。私はよく体調も崩しますし、メソメソ泣き虫ですが、闇を直視するという方向性においてはメンタル強いなぁなどと自分で思ったりしています(笑)。

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