「治療のため」なら何でも許される?

コロナ騒動でこれまで以上に「健康」「医療」についての関心が高まる昨今。「コロナ対策」と言えばどんな理不尽なことでもまかり通り、全体主義に陥っている…ということは以前の記事でも書いてきました。普段からさして健康に気を遣っているわけでもないのに、政府やメディアの言うコロナ対策には盲目的に熱心に取り組む、というのが多くの大衆の姿。「健康」「医療」を持ち出せば何でも正当化される風潮に違和感しかありません。今回の記事では、最近読んでいた本を手掛かりに、コロナ云々ではなく以前から気にしていた生命倫理や遺伝子工学の分野について、「治療のため」という理屈がどこまで通るのかを考えてみたいと思います。

これまでのいくつかの記事でも書いてきましたが、私は生命倫理の分野に非常に関心があり、着床前診断や不妊治療の是非などについても個人的に調べたり考えたりしてきました。その中で最近読んでいたのが『命をどこまで操作してよいか:応用倫理学講義 』 澤井 努 (著) という本です。ES細胞やiPS細胞、遺伝子工学の技術が進み、動物の体内で人間の臓器を作ったり、体外でできた精子・卵子から子どもを作ったり、胎児の遺伝子を操作したりできるようになった時に、生命倫理的にそれをどう考えればよいのか、といったようなことが書いてあります。そして、それらの技術を正当化する論理として必ず「治療のため」といった文言が入ってくることが気になりました。

私は生命倫理に関することはかなり原理主義的と言いますか、自然主義と言いますか、あらゆる人為的操作はすべきでないと考えている方なので、「治療のため」とは言え、越えてはならない一線はあるし、それを厳しめにとらえています。「胎児の遺伝子操作」なんて、治療のためだろうが何だろうが、問答無用で「ダメ、ゼッタイ」としか思えません。その本の中で取り上げられていたのは、先天性の遺伝子疾患・障害を予防するためという名目での遺伝子操作だったのですが、遺伝子についてはそもそもわかっていないことが多く、人間が安易に手を出してはいけない領域だと考えています。結局その本の中でも、安全性を担保することがとても難しいので(何世代にも渡る調査が必要)、実現可能性は現状低そうだ、というような結論でした。

こういった先端技術の是非も問題ですが、私自身は現行行われている不妊治療や臓器移植や過度な延命治療についても疑問に思う部分はあります。不妊治療における体外受精や顕微授精など、一般的に行われてはいますが、まだまだ人体実験中と言いますか、その後の影響についてはわからないことも多く、サンプルを集めているような状況ではあると思います。普通の病気も「治療」するのだから、不妊も「治療」するのは当たり前だというような話もよく目にしますが、第三者という新たな命を誕生させてしまうという点でも、普通の病気の治療とは違った観点が必要なのではと思ったりもします。不妊に悩む方の光明になればという気持ちもありつつ、「治療」だからと生命倫理の技術がどんどん進んでいくことには恐ろしさも感じてしまいます。

私が生命倫理にうるさいのは、人間の受精や出産の神秘、母親の子宮内での影響などについていろいろと調べたり勉強してきたということもありますし、今大人になって普通に生きている私自身が胎児期のトラウマを実は強く受けているのだと実感したことも関係しています。この辺りはエセ科学と言われたりしてわかってもらえないことも多いのですが、実感として確信しているので揺るぎません。この問題を考える時に思い出すのが、老子の「無為自然」という思想です。私はこの言葉がとても好きで、この言葉を見たり読んだりするだけで、力が抜けてリラックスする感じがします。あるがままに任せて自然に生きる…。「治療」が悪だとはもちろん言いませんが、そうは言っても何でもかんでも正当化されるわけではないんじゃないかなと思い、この記事を書いてみました。

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